Ⅱテモテ2:16-19
16 俗悪なむだ話を避けなさい。それによって人々は、ますます不信心に落ちていき、
17 彼らの言葉は、がんのように腐れひろがるであろう。その中にはヒメナオとピレトとがいる。
18 彼らは真理からはずれ、復活はすでに済んでしまったと言い、そして、ある人々の信仰をくつがえしている。
19 しかし、神のゆるがない土台はすえられていて、それに次の句が証印として、しるされている。「主は自分の者たちを知る」。また「主の名を呼ぶ者は、すべて不義から離れよ」。
ヒメナオとピレトは、小アジアにエペソ教会において指導的立場(おそらく長老)にいたと思われる。しかしいつの間にか「真理から外れ」、使徒パウロが「俗悪な無駄話」としている偽りの教えを教えるようになり、人々の信仰を覆すようになっていた。
彼らの教え『復活はすでに済んでしまった』とは、どんなものだったのか。パウロは具体的詳細を書いていないので推測になるが、イエス・キリストの死と復活を信じる者が経験する霊的新生の経験、つまりキリストの十字架の死によって古き人に死に、神に生きるためにキリストの復活によって新しく生まれる経験を全てと見做し、肉体の復活を否定していたと思われる。
この教えは、キリストの十字架と復活や新生経験を否定しているわけではないので、この教えに従ったいった人々も騙されてしまったのだろう。しかし彼らの信仰を覆すには十分なほどの「毒素」を含んでいたのである。
それではその「毒素」とは一体何だったのか。「霊的復活を信じ、肉体的復活を否定すること」に、どんな悪影響があるのだろうか。直接的影響は、信仰生活における肉体的・地上的面の軽視である。霊的復活によって魂が救われているのだから、肉体においてどのような生活をしようとも、救いを外れることはない、と考えたのである。これは新生経験後の信仰生活における「肉の存在」を否定もしくは軽視することに繋がり、放縦や逆に律法主義的生き方に信者を陥れるのである。「魂は新しくされ救われているのだから、情欲に従って生きたとしても、霊は罪の影響を受けることはないし、救いを失うことはない」と主張したり、「霊は新しくされているのだから、私達が為すことは全て霊的で神に祝福されている」とし、「肉の影響」が信仰者の宗教的行為を含め、生活全般にわたってあり得ることを否定するのである。(この偽りの教えは、後にキリスト教会を揺るがすほど影響力をもつことになるグノーシス主義の「芽」とも言えるかもしれない。)
使徒パウロがヒメナオとピレトの偽りの教えに対して、以下の言葉で論駁しているのは興味深い。
しかし、神のゆるがない土台はすえられていて、それに次の句が証印として、しるされている。「主は自分の者たちを知る」。また「主の名を呼ぶ者は、すべて不義から離れよ」。
主なる神は、ご自分に属する者の全て、弱さを含めた全ての現実をご存じであり、だからこそ、もし信仰者を名乗るのなら「すべて不義から離れよ」と命じておられるのである。
実際、地上においては信仰者の誰もが(たといそれが「尊敬すべき」「立派な」信仰者であろうとも)、肉を持ち、「時間の中にいる様相」が「永遠の様相」に変わることを、「実際の姿」が「あるべき姿」に完成させられるのを待ち焦がれている「罪人」なのである。使徒パウロの告白がそれを証ししている。
Ⅰテモテ1:15
「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世にきて下さった」という言葉は、確実で、そのまま受けいれるに足るものである。わたしは、その罪人のかしらなのである。
成熟した信仰者としての老使徒パウロが、現在形(EIMI EGO)で「私は、その罪人のかしらなのである」と告白しているのである。勿論、使徒パウロは犯罪を犯したり、律法を無視した不敬虔な生き方をしていたのでは断じてない。ただイエスの尊き血によって贖われていたとはいえ「教会を迫害した過去の自分の記憶」も含めて、自分がまだ時間の中に生き、地上に生き、「土の器」として生きていることを自覚していたからである。そのような「罪人のかしら」を救うために来てくださったイエス・キリストを信じていたからこそ、パウロはその救いの完成を待ち望み、他の人々に同じ希望をもって教えていたのだ。
ピリピ3:10-14
10 すなわち、キリストとその復活の力とを知り、その苦難にあずかって、その死のさまとひとしくなり、
11 なんとかして死人のうちからの復活に達したいのである。
12 わたしがすでにそれを得たとか、すでに完全な者になっているとか言うのではなく、ただ捕えようとして追い求めているのである。そうするのは、キリスト・イエスによって捕えられているからである。
13 兄弟たちよ。わたしはすでに捕えたとは思っていない。ただこの一事を努めている。すなわち、後のものを忘れ、前のものに向かってからだを伸ばしつつ、
14 目標を目ざして走り、キリスト・イエスにおいて上に召して下さる神の賞与を得ようと努めているのである。
ピリピ3:20,21
20 しかし、わたしたちの国籍は天にある。そこから、救主、主イエス・キリストのこられるのを、わたしたちは待ち望んでいる。
21 彼は、万物をご自身に従わせうる力の働きによって、わたしたちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じかたちに変えて下さるであろう。
信仰者には「天の国籍」が与えられているが、今は地上に住む「異邦人」であり、「旅人」であり、「寄留者」である(Ⅰペテロ2:11)。神は救いの瞬間に信仰者を御許に導くこともできるはずである。それにもかかわらず「帰郷の道」を備えられた。その道は長く険しいかもしれないが、それでも彼が信じ、望み、歩み続けるなら、必ず辿り着けることが約束されているのである。そして何より、その道中で彼は一人ではないのだ。
へブル12:1-14
1 こういうわけで、わたしたちは、このような多くの証人に雲のように囲まれているのであるから、いっさいの重荷と、からみつく罪とをかなぐり捨てて、わたしたちの参加すべき競走を、耐え忍んで走りぬこうではないか。
2 信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか。彼は、自分の前におかれている喜びのゆえに、恥をもいとわないで十字架を忍び、神の御座の右に座するに至ったのである。
3 あなたがたは、弱り果てて意気そそうしないために、罪人らのこのような反抗を耐え忍んだかたのことを、思いみるべきである。
4 あなたがたは、罪と取り組んで戦う時、まだ血を流すほどの抵抗をしたことがない。
5 また子たちに対するように、あなたがたに語られたこの勧めの言葉を忘れている、「わたしの子よ、主の訓練を軽んじてはいけない。主に責められるとき、弱り果ててはならない。
6 主は愛する者を訓練し、受けいれるすべての子を、むち打たれるのである」。
7 あなたがたは訓練として耐え忍びなさい。神はあなたがたを、子として取り扱っておられるのである。いったい、父に訓練されない子があるだろうか。
8 だれでも受ける訓練が、あなたがたに与えられないとすれば、それこそ、あなたがたは私生子であって、ほんとうの子ではない。
9 その上、肉親の父はわたしたちを訓練するのに、なお彼をうやまうとすれば、なおさら、わたしたちは、たましいの父に服従して、真に生きるべきではないか。
10 肉親の父は、しばらくの間、自分の考えに従って訓練を与えるが、たましいの父は、わたしたちの益のため、そのきよさにあずからせるために、そうされるのである。
11 すべての訓練は、当座は、喜ばしいものとは思われず、むしろ悲しいものと思われる。しかし後になれば、それによって鍛えられる者に、平安な義の実を結ばせるようになる。
12 それだから、あなたがたのなえた手と、弱くなっているひざとを、まっすぐにしなさい。
13 また、足のなえている者が踏みはずすことなく、むしろいやされるように、あなたがたの足のために、まっすぐな道をつくりなさい。
14 すべての人と相和し、また、自らきよくなるように努めなさい。きよくならなければ、だれも主を見ることはできない。