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「エルサレムのために平安を祈れ」の本質

親イスラエルの動き : 村上 密 Blog

「イスラエルを祝福する者は祝福される。」旧約聖書から切り取った聖句を直接に現代に適用する方法が正しいかどうか考えてほしい。このイスラエルの定義はいったい何なのかである。

 「イスラエルを祝福する者は祝福される」と同様に、「エルサレムのために平安を祈れ」という詩篇122篇の聖句も、文脈から切り離され、政治国家としてのイスラエルの肩を持つような「祈り」に組み込まれている。

 キリストの恵みに生きる信仰者は、エルサレムのために平安を祈るだろう。しかしそれは、イスラエルという国家に属する人々(十二支族の子孫、遺伝子学的には全く関係がない「ユダヤ人」、ユダヤ教信者、無神論者など全ての人)のため同様、かの土地に住むパレスチナ人も、真のメシアであるイエス・キリストを信じ、彼らの魂が救われ、生ける神との平和を受けることができるようになるためである。イエス・キリストだけが、あらゆる憎悪と敵意と隔たりを取り除く、真の平和である。

エペソ2:11-16

11 だから、記憶しておきなさい。あなたがたは以前には、肉によれば異邦人であって、手で行った肉の割礼ある者と称せられる人々からは、無割礼の者と呼ばれており、

12 またその当時は、キリストを知らず、イスラエルの国籍がなく、約束されたいろいろの契約に縁がなく、この世の中で希望もなく神もない者であった。

13 ところが、あなたがたは、このように以前は遠く離れていたが、今ではキリスト・イエスにあって、キリストの血によって近いものとなったのである。

14 キリストはわたしたちの平和であって、二つのものを一つにし、敵意という隔ての中垣を取り除き、ご自分の肉によって、

15 数々の規定から成っている戒めの律法を廃棄したのである。それは、彼にあって、二つのものをひとりの新しい人に造りかえて平和をきたらせ、

16 十字架によって、二つのものを一つのからだとして神と和解させ、敵意を十字架にかけて滅ぼしてしまったのである。 

 如何なる理由があろうとも、恵みの御言葉に生きる信仰者は、暴力や報復行為を正当化する権勢に加担するような「執り成しの祈り」を捧げてはならない。

 

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