an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

人はどうして神の前に正しくありえようか

f:id:eastwindow18:20140621013056j:plain

ヨブ9:2b

(口語訳)

人はどうして神の前に正しくありえようか。

 

(新共同訳)

神より正しいと主張できる人間があろうか。

 

(新改訳)

どうして人は自分の正しさを神に訴えることができようか。

  その信仰のゆえに、主なる神に「わたしのしもべ」と呼ばれ、「全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかる者」と認められていたヨブは、壮絶な試練の中にいて、冒頭に引用した最も本質的な問いを口にした。

 多くの人はこの問いに対して全く無関心である。「どうしたら金持ちになれるか」「どうしたら幸福になれるか」「どうしたら偉くなれるか」「どうしたら美しくなれるか」「どうしたら長生きできるか」などの問いかけに気を取られ、それらの答えを見出すために様々な試み、その多くが倫理性から逸脱した試みが行われている。

 逆に宗教の領域では、この問いに対して自分の道徳性や宗教的行為で答えようとする。慈善事業や献金を多くしてきたことで「神の前に正しくあろう」とし、礼拝に欠かさず出席していることや聖書の通読回数を誇り、豚肉やエビやタコを食べないことを宣言し、「自分の正しさ」を神と人の前で誇ったりするのである。

 しかし罪人なる私達を義認することができるのは、私達自身でも私達の行為でもなく、義なる審判者である神だけである。主なる神だけが、一人の人、神の御子イエス・キリストの唯一の義なる行為、つまり十字架の身代わりの死によって、神の義を備えて下ったのである。

ローマ5:18,19

18 このようなわけで、ひとりの罪過によってすべての人が罪に定められたように、ひとりの義なる行為によって、いのちを得させる義がすべての人に及ぶのである。
19 すなわち、ひとりの人の不従順によって、多くの人が罪人とされたと同じように、ひとりの従順によって、多くの人が義人とされるのである。

 ヨブは大きな試練の真っ只中、一瞬の啓示の光を受け、神の御子に対する信仰を告白した。

ヨブ19:25-27

25 わたしは知る、わたしをあがなう者は生きておられる、後の日に彼は必ず地の上に立たれる。
26 わたしの皮がこのように滅ぼされたのち、わたしは肉を離れて神を見るであろう。
27 しかもわたしの味方として見るであろう。わたしの見る者はこれ以外のものではない。わたしの心はこれを望んでこがれる。

  恵みの時代に生きる私達の上には、この御子の啓示の光が絶えず光り輝いている。