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夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

あなたに足りないことが一つある


NHKが報じられない、うつ病治療の実態1 by チャンネル桜 - YouTube

1から5までシリーズである。

 

 饅頭の「あんこ」にあたる人間の心、存在の「背骨」にあたる価値観、「不安」「不快」「不満」の原因、というコンセプトに触れながらも、人間の最も根源的な鬱状態、「存在自体の虚無感」にまで向き合っていないのではないだろうか。

 たとい勉強ができたとしても、安定した仕事についていたとしても、社会が安定していようとも、人間的愛情に満たされたとしても、人の心には「何か」が決定的に欠けている。鬱状態に悩む心の多くは、それを表面的な気休めで誤魔化すことができないことを直感で悟っていると思う。

 「人生に何を求めればいいのか」否、そもそも「人間の生は、自分に何を求めているのか」という問いかけに真摯に取り組もうとする心を、「大人たちの知恵」はあざ笑う。それは「大人たち」がまず向き合っていないからである。

 聖書の啓示を知っているはずの教会のなかですら、実に「安っぽい」福音が語られ、本来心の最も深い部分まで降りていき、そこに福音の光をもたらす使命と勇気が与えられているはずなのに、あの妙に浮ついた雰囲気によって、ただ誤魔化しているのではないだろうか。

マルコ10:17-22

17 イエスが道に出て行かれると、ひとりの人が走り寄り、みまえにひざまずいて尋ねた、「よき師よ、永遠の生命を受けるために、何をしたらよいでしょうか」。 

18 イエスは言われた、「なぜわたしをよき者と言うのか。神ひとりのほかによい者はいない。 

19 いましめはあなたの知っているとおりである。『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証を立てるな。欺き取るな。父と母とを敬え』」。 

20 すると、彼は言った、「先生、それらの事はみな、小さい時から守っております」。 

21 イエスは彼に目をとめ、いつくしんで言われた、「あなたに足りないことが一つある。帰って、持っているものをみな売り払って、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、わたしに従ってきなさい」。 

22 すると、彼はこの言葉を聞いて、顔を曇らせ、悲しみながら立ち去った。たくさんの資産を持っていたからである。 

  この青年は、「(高い地位の)役人のひとり」で「大金持ち」であった(ルカ18:18,23)。彼は、イエス・キリストに対して「良き師よ」と呼びかけ、彼の前で跪いて「永遠の生命を受けるために、何をしたらよいでしょうか」と尋ねた。現代の洗礼者数を誇る教会だったら、「あなたは、その信仰によってもう救われています」と励まし、間違いなくその場で洗礼を授けていたことだろう。あるいはメンタル・カウンセラーだったら、「あなたは全てをもっているのに、満足していない。その不満の原因を一緒に考えましょう」といって、青年の幼年期の出来事や両親との関係について質問し始めたかもしれない。

 しかしイエス・キリストは違った。この青年をみつめ、愛をもって「あなたに足りないことが一つある」と的確に指摘したのである。彼の心に足りなかったのはキリストであり、キリストとの霊の交わりであった。

 これは教会に通っているクリスチャンの間でも起こり得る「決定的欠乏」である。日曜日に教会に通い、聖書を読み、証しをしていても、十字架のキリストとの交わりを求め続けなかったなら、私達はラオデキヤの教会のように、キリスト不在にさえ気付かずに宗教的・地上的自己満足で誤魔化すこともできるのである。

黙示録3:14-22

14 ラオデキヤにある教会の御使に、こう書きおくりなさい。『アァメンたる者、忠実な、まことの証人、神に造られたものの根源であるかたが、次のように言われる。 

15 わたしはあなたのわざを知っている。あなたは冷たくもなく、熱くもない。むしろ、冷たいか熱いかであってほしい。 

16 このように、熱くもなく、冷たくもなく、なまぬるいので、あなたを口から吐き出そう。 

17 あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、なんの不自由もないと言っているが、実は、あなた自身がみじめな者、あわれむべき者、貧しい者、目の見えない者、裸な者であることに気がついていない。 

18 そこで、あなたに勧める。富む者となるために、わたしから火で精錬された金を買い、また、あなたの裸の恥をさらさないため身に着けるように、白い衣を買いなさい。また、見えるようになるため、目にぬる目薬を買いなさい。 

19 すべてわたしの愛している者を、わたしはしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって悔い改めなさい。 

20 見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう。 

21 勝利を得る者には、わたしと共にわたしの座につかせよう。それはちょうど、わたしが勝利を得てわたしの父と共にその御座についたのと同様である。 

22 耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい』」。 

  生井氏は、この世の中にうつ病で苦しむ人を受け入れる器が、刑務所と精神病院しかない、と言っているが、クリスチャンはこれを一つの「挑戦状」として受け止めるべきであろう。「十字架にかけられたキリストとのより深い交わり」を求め、「彼の復活の力によって、この世の虚無に苦しむ魂に遣わされていく」という挑戦状である。

ピリピ3:5-14

5 わたしは八日目に割礼を受けた者、イスラエルの民族に属する者、ベニヤミン族の出身、ヘブル人の中のヘブル人、律法の上ではパリサイ人、 

6 熱心の点では教会の迫害者、律法の義については落ち度のない者である。 

7 しかし、わたしにとって益であったこれらのものを、キリストのゆえに損と思うようになった。 

8 わたしは、更に進んで、わたしの主キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値のゆえに、いっさいのものを損と思っている。キリストのゆえに、わたしはすべてを失ったが、それらのものを、ふん土のように思っている。それは、わたしがキリストを得るためであり、 

9 律法による自分の義ではなく、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基く神からの義を受けて、キリストのうちに自分を見いだすようになるためである。 

10 すなわち、キリストとその復活の力とを知り、その苦難にあずかって、その死のさまとひとしくなり、 

11 なんとかして死人のうちからの復活に達したいのである。 

12 わたしがすでにそれを得たとか、すでに完全な者になっているとか言うのではなく、ただ捕えようとして追い求めているのである。そうするのは、キリスト・イエスによって捕えられているからである。 

13 兄弟たちよ。わたしはすでに捕えたとは思っていない。ただこの一事を努めている。すなわち、後のものを忘れ、前のものに向かってからだを伸ばしつつ、 

14 目標を目ざして走り、キリスト・イエスにおいて上に召して下さる神の賞与を得ようと努めているのである。 

 

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