「愚かさ」の中で待つキリスト
イザヤ53:1-4
1 だれがわれわれの聞いたことを信じ得たか。主の腕は、だれにあらわれたか。
2 彼は主の前に若木のように、かわいた土から出る根のように育った。彼にはわれわれの見るべき姿がなく、威厳もなく、われわれの慕うべき美しさもない。
3 彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの人で、病を知っていた。また顔をおおって忌みきらわれる者のように、彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった。
4 まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。しかるに、われわれは思った、彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。
8 彼は暴虐なさばきによって取り去られた。その代の人のうち、だれが思ったであろうか、彼はわが民のとがのために打たれて、生けるものの地から断たれたのだと。
「だれがわれわれの聞いたことを信じ得たか。」
「主の腕は、だれにあらわれたか。」
「その代の人のうち、だれが思ったであろうか、彼はわが民のとがのために打たれて、生けるものの地から断たれたのだと。」
預言者イザヤがイエス・キリストの誕生の約七百五十年前に受けたこの預言の中の三つの問いかけは、神が永遠の時から備えられていたキリストの福音が、人間の知恵や想像をはるかに超えるメッセージであることを端的に示している。人間が知恵を寄り集めて作り得るものでは、全くなかったのである。それは何より、神の永遠の御子が人間と同じ肉体を持ち、この地上に顕れ、しかも人類の罪と病と死を背負って、祝福と命の源である方が十字架の上で呪いの死を通るという、「奇想天外」なストーリーによる。
実際、イエスは世に類なき美しさをもち、大理石の宮殿に生まれ育ち、人々の称賛に囲まれて地上の人生を過ごしたわけではなかった。ユダヤ人たちはそのような栄光に満ちたメシアを求めていた。しかし主の腕、つまり神の力と権威は、通り過ぎる人に踏みつけられる「かわいた土から出る根」ように、卑しい姿で顕れた。
「侮られて」
「人に捨てられ」
「悲しみの人」
「病を知っていた」
「顔をおおって忌みきらわれる者」
「侮られた」
このような表現のうちにどうやって栄光なる神を見出せるだろうか。しかし、神の腕はこのような者を通して顕れたのである。
Ⅰコリント2:9
しかし、聖書に書いてあるとおり、「目がまだ見ず、耳がまだ聞かず、人の心に思い浮びもしなかったことを、神は、ご自分を愛する者たちのために備えられた」のである。
こんなストーリーをただ信じるなんて、ナンセンスでバカバカしいと思えるかもしれない。思わず聖書を放り投げてしまう程、受け入れがたいかもしれない。しかしまさにそのバカバカしさの中で、生ける知恵なるキリストはあなたのことを静かに待っているのである。
Ⅰコリント1:21-25
21 この世は、自分の知恵によって神を認めるに至らなかった。それは、神の知恵にかなっている。そこで神は、宣教の愚かさによって、信じる者を救うこととされたのである。
22 ユダヤ人はしるしを請い、ギリシヤ人は知恵を求める。
23 しかしわたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝える。このキリストは、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものであるが、
24 召された者自身にとっては、ユダヤ人にもギリシヤ人にも、神の力、神の知恵たるキリストなのである。
25 神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからである。