an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

「十字架につけられたキリスト無き福音」の惑わし

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ガラテヤ3:1-4

1 ああ、物わかりのわるいガラテヤ人よ。十字架につけられたイエス・キリストが、あなたがたの目の前に描き出されたのに、いったい、だれがあなたがたを惑わしたのか。

2 わたしは、ただこの一つの事を、あなたがたに聞いてみたい。あなたがたが御霊を受けたのは、律法を行ったからか、それとも、聞いて信じたからか。

3 あなたがたは、そんなに物わかりがわるいのか。御霊で始めたのに、今になって肉で仕上げるというのか。

4 あれほどの大きな経験をしたことは、むだであったのか。まさか、むだではあるまい。

  終わりの時代のクリスチャンは、ガラテヤの信徒たちとは違った意味で惑わされているのではないだろうか(文語訳や岩波訳、塚本訳は「たぶらかす」という動詞に訳している)。使徒パウロが「あれほど大きな経験」と呼んでいる「十字架体験」を通らずに、「なんとなく」教会に通い、「洗礼を受けたから私はクリスチャン」だと思い込んでいないだろうか。御霊について一通りの聖書の知識はあるものの、実は心の中では確信に欠け、「信仰によって御霊を受ける」や「御霊で始める」という啓示に関しても、明確な体験の土台が無いゆえに、無理に自分自身に言い聞かせているような状態ではないだろうか。

 聖霊の啓示によって、十字架につけられたイエス・キリストをあなたは目の前で見たことがあるだろうか。その啓示によって、過去に犯した自分の罪や過ちだけでなく、あなたの「全て」が十字架につけられたことを見ただろうか。使徒パウロが告白している「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19,20a)という体験を通して、肉による律法の無力さ(ローマ8:2)から解放されただろうか。

 「十字架につけられたキリスト無き福音」に決して惑わされてはならない。