教会の交わりの中に不信仰な者が忍び込むとき
ユダ3,4(新改訳)
3 愛する人々。私はあなたがたに、私たちがともに受けている救いについて手紙を書こうとして、あらゆる努力をしていましたが、聖徒にひとたび伝えられた信仰のために戦うよう、あなたがたに勧める手紙を書く必要が生じました。
4 というのは、ある人々が、ひそかに忍び込んで来たからです。彼らは、このようなさばきに会うと昔から前もってしるされている人々で、不敬虔な者であり、私たちの神の恵みを放縦に変えて、私たちの唯一の支配者であり主であるイエス・キリストを否定する人たちです。
この僅か25節で構成されている短い手紙の冒頭は、非常に意味深い。ヤコブ同様、主イエスの実の弟であったユダ(マタイ13:55参照)は、「共に受けていていた救い」をテーマに手紙を書こうと願っていたが、ある危機的な状況を聞くに至って、その内容を変更せざる負えなくなったというのである。この聖霊によって与えられた「緊迫感」を、神の愛の顕現として捉えることがまず重要である。これは使徒パウロがコリント教会の信徒たちに示した愛と共通するものである。
Ⅱコリント5:13,14a
13 もしわたしたちが、気が狂っているのなら、それは神のためであり、気が確かであるのなら、それはあなたがたのためである。
14 なぜなら、キリストの愛がわたしたちに強く迫っているからである。
それでは、ユダの強い願いを変える程の危機的状況とは何だったのだろうか。それは「ある人々」が、ひそかに信徒の交わりに忍びこんできたからである。ユダはその「ある人々」を、強烈な表現を使って描き出している。
- 不信仰な人々(新改訳:不敬虔な者)
- 私たちの神の恵みを放縦に変えて、私たちの唯一の支配者であり主であるイエス・キリストを否定する人たち
- 夢に迷わされる者
- 肉体を汚し、権威ある者を軽んじ、栄えある者をそしる者
- 自分が知りもしないことをそしり、(新改訳:自分には理解もできないことをそしり)
- 分別のない動物のように、ただ本能的な知識にあやまられて、自らの滅亡を招いている
- カインの道を行き、利のためにバラムの惑わしに迷い入り、コラのような反逆をして滅んでしまう
- クリスチャンの愛餐に加わる、つまり礼拝に参加し、食事を共にする
- それを汚し、無遠慮に宴会に同席して、自分の腹を肥やす
- 風に吹きまわされる水なき雲
- 実らない枯れ果てて、抜き捨てられた秋の木
- 自分の恥をあわにして出す海の荒波
- さまよう星
- 不平をならべ、不満を鳴らす者
- 自分の欲のままに生活し、その口は大言を吐き、利のために人にへつらう者
- あざける者
- 自分の不信心な欲のままに生活する
- 分派をつくる者
- 肉に属する者
- 御霊を持たない者
これらの者は、「さばきに会うと昔から前もってしるされている人々」であり、彼には「まっくらなやみが永久に用意されている」とあるが、問題は、その時彼らが信徒らの交わりの中に忍び込んでいて、信徒のふりをしながら現実に霊的害悪をまき散らしていることであった。
しかし驚くべきことに、ユダが勧めている「ひとたび伝えられた信仰のために戦うこと」の内容には、「忍び込んできた者たちをあぶり出し、裁き、あなたがたの教会から追放せよ」という言葉など一切ないのである。
- あなたがたはみな、じゅうぶんに知っていることではあるが、主が民をエジプトの地から救い出して後、不信仰な者を滅ぼされたことを、思い起してもらいたい。(5節)
- わたしたちの主イエス・キリストの使徒たちが予告した言葉を思い出しなさい。(17節)
- 最も神聖な信仰の上に自らを築き上げ、
- 聖霊によって祈り、
- 神の愛の中に自らを保ち、
- 永遠のいのちを目あてとして、
- わたしたちの主イエス・キリストのあわれみを待ち望みなさい。(20,21節)
- 疑いをいだく人々があれば、彼らをあわれみ、 火の中から引き出して救ってやりなさい。
- そのほかの人たちを、おそれの心をもってあわれみなさい。
- 肉に汚れた者に対しては、その下着さえも忌みきらいなさい。 (22,23節)
教会内にいる不信仰な人々に対する対処としては、最後の戒め「肉に汚れた者に対しては、その下着さえも忌みきらいなさい。」があるだけで、その他は全て、そのような厳しい状況においても「自分が」神の真理を心に留め、「自分が」信仰によって歩み、「自分が」聖霊によって祈り、「自分が」主イエス・キリストのあわれみを待ち望みなさい、と勧めているのである。また、疑いを抱く人々に対しては憐みを示し、救いの手を差し伸べるように命じている。
ここでも使徒パウロがガラテヤの教会へ書いた手紙の中にみられる遜った霊と同じものが認められるのではないだろうか。
ガラテヤ6:1,2
1 兄弟たちよ。もしもある人が罪過に陥っていることがわかったなら、霊の人であるあなたがたは、柔和な心をもって、その人を正しなさい。それと同時に、もしか自分自身も誘惑に陥ることがありはしないかと、反省しなさい。
2 互に重荷を負い合いなさい。そうすれば、あなたがたはキリストの律法を全うするであろう。
納得できない不義や不正の裁きを全て主なる神に委ね、自らの罪深さを曝け出しながら神の御前に留まるのは、イエス・キリストの十字架が無ければ不可能である。もし十字架の恵みがなかったら、自分の罪の赦しを求めつつ、他人の罪の裁きを求める自己矛盾の奴隷状態から私達を救ってくれるものは全く存在しないからである。
アサフが詩篇73篇に書き記した「神の聖所における奇蹟的解放」は、イエス・キリストの十字架の犠牲の死によって、心から悔い改める全ての罪びとが、もれなく体験することができる恵みの体験である。
詩篇73
1 アサフの歌 神は正しい者にむかい、心の清い者にむかって、まことに恵みふかい。
2 しかし、わたしは、わたしの足がつまずくばかり、わたしの歩みがすべるばかりであった。
3 これはわたしが、悪しき者の栄えるのを見て、その高ぶる者をねたんだからである。
4 彼らには苦しみがなく、その身はすこやかで、つやがあり、
5 ほかの人々のように悩むことがなく、ほかの人々のように打たれることはない。
6 それゆえ高慢は彼らの首飾となり、暴力は衣のように彼らをおおっている。
7 彼らは肥え太って、その目はとびいで、その心は愚かな思いに満ちあふれている。
8 彼らはあざけり、悪意をもって語り、高ぶって、しえたげを語る。
9 彼らはその口を天にさからって置き、その舌は地をあるきまわる。
10 それゆえ民は心を変えて彼らをほめたたえ、彼らのうちにあやまちを認めない。
11 彼らは言う、「神はどうして知り得ようか、いと高き者に知識があろうか」と。
12 見よ、これらは悪しき者であるのに、常に安らかで、その富が増し加わる。
13 まことに、わたしはいたずらに心をきよめ、罪を犯すことなく手を洗った。
14 わたしはひねもす打たれ、朝ごとに懲しめをうけた。
15 もしわたしが「このような事を語ろう」と言ったなら、わたしはあなたの子らの代を誤らせたであろう。
16 しかし、わたしがこれを知ろうと思いめぐらしたとき、これはわたしにめんどうな仕事のように思われた。
17 わたしが神の聖所に行って、彼らの最後を悟り得たまではそうであった。
18 まことにあなたは彼らをなめらかな所に置き、彼らを滅びに陥らせられる。
19 なんと彼らはまたたくまに滅ぼされ、恐れをもって全く一掃されたことであろう。
20 あなたが目をさまして彼らの影をかろしめられるとき、彼らは夢みた人の目をさました時のようである。
21 わたしの魂が痛み、わたしの心が刺されたとき、
22 わたしは愚かで悟りがなく、あなたに対しては獣のようであった。
23 けれどもわたしは常にあなたと共にあり、あなたはわたしの右の手を保たれる。
24 あなたはさとしをもってわたしを導き、その後わたしを受けて栄光にあずからせられる。
25 わたしはあなたのほかに、だれを天にもち得よう。地にはあなたのほかに慕うものはない。
26 わが身とわが心とは衰える。しかし神はとこしえにわが心の力、わが嗣業である。
27 見よ、あなたに遠い者は滅びる。あなたは、あなたにそむく者を滅ぼされる。
28 しかし神に近くあることはわたしに良いことである。わたしは主なる神をわが避け所として、あなたのもろもろのみわざを宣べ伝えるであろう。
実際、私たちが主なる神を避け所とし、御子の十字架の下に憩うとき、主なる神自身が私達を守ってくださると保証されている。
ユダ24-25
24 あなたがたを、つまずかないように守ることができ、傷のない者として、大きな喜びをもって栄光の御前に立たせることのできる方に、
25 すなわち、私たちの救い主である唯一の神に、栄光、尊厳、支配、権威が、私たちの主イエス・キリストを通して、永遠の先にも、今も、また世々限りなくありますように。アーメン。