an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

神を試みる誘惑

CNN.co.jp : ヘビ使いの牧師、ヘビに噛まれ死亡 米ケンタッキー州

 この「牧師」は、マルコによる福音書の一節を濫用し、このような結末になったのだろう。

マルコ16:17,18

17 信じる者には、このようなしるしが伴う。すなわち、彼らはわたしの名で悪霊を追い出し、新しい言葉を語り、 

18 へびをつかむであろう。また、毒を飲んでも、決して害を受けない。病人に手をおけば、いやされる」。 

  聖書は、このような行為を「神を試みる」行為としている。地上における宣教を始める際、御子イエスは荒野で悪魔の誘惑を受けたが、その時の誘惑の一つがまさにこの「神を試みる」と言うことであった。

マタイ4:5-7

5 それから悪魔は、イエスを聖なる都に連れて行き、宮の頂上に立たせて 

6 言った、「もしあなたが神の子であるなら、下へ飛びおりてごらんなさい。『神はあなたのために御使たちにお命じになると、あなたの足が石に打ちつけられないように、彼らはあなたを手でささえるであろう』と書いてありますから」。 

7 イエスは彼に言われた、「『主なるあなたの神を試みてはならない』とまた書いてある」。

 悪魔は詩篇91編の11,12節を引用した。イエス・キリストが自分のことを神の子であることを証明するように、聖書の約束を利用し、宮の頂上から飛び降りる様誘導しようとしたのである。悪魔はイエスが神の子であることを誰よりも知っていた。また天使よりも栄光と権威を持っている方であることを十分承知であった。御子は自分の権威と力を悪魔に証明する必要は全くなかったのである。むしろ悪魔は、自己顕示へ誘導することによって、父なる神が定めた秩序と計画から、御子をひきずり出そうとしたのである。

 今回のヘビ使いの「牧師」の悲劇は、私達が思う程、私達の霊的現実から遠いエピソードではない。聖書の約束を引用し、自分の霊性や正義、正統性、権威を誇示しようとしたり、自己実現に利用したりすることに、誘惑の力さえ感知できない程、終わりの時代の霊性は自己中心的である。罪人は、イエス・キリストの十字架の死を信仰によって受け入れることによって「神の子」とされたのであって、遜ってその恵みのもとに留まり続けることがそのことを証明しているのである。奇蹟を起こしたり、人の目につく働きをしたり、献金をより多く捧げることが、私達を「神に属する者としての祝福」を証明するのではない。

 悪魔がこの誘惑をするために御子を「非常に高い山」ではなく、エルサレムの神の宮の頂上に連れて行ったことも意味深い。まさに宗教的環境にこそ、自己顕示のために神の権威を利用しようとする誘惑が、より強烈に働くということを暗示しているのではないだろうか。