an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

やるせなさ

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 ボローニャのマッジョーレ広場。昼間には人々が行き交い、出会い、おしゃべりしたりする空間だが、さすがに冬の雨の日の夕食時となると、人の姿はまばらになり、濡れた石畳に映り込む光は、哀愁を帯びて見える。

 少々感傷的になっていると、以前この広場で出会ったある男性のことを思い出した。サルバトーレ(イタリア語で『救い主』という意味)という名のシチリア島出身のその男性は、一年中、独特の服装をして広場で踊るのが「趣味」であった。踊りといっても、同じ場所で回転しながらジャンプを繰り返すだけであった。それを休み休み何時間もやるのだから、周りの人が不気味がるのも無理はなかった。その動きはまるで、彼の体の中で縛られ抑え付けられてる魂が、解放を求めて必死に飛び出そうとするが、「鎖」の重みで引き戻されているようで、見ていて苦痛を感じるものであった。

 ある時、思い切って彼に声をかけてみたら、その見かけとは反対に、実に素朴な心の持ち主であった。しかしそれと同時に、今にも壊れてしまいそうな繊細さを持っていた。私は聖霊に祈りつつ、自分の救いの証を交えながら、イエス・キリストの十字架の死による罪意識からの解放について話をし、その場を後にした。それは土曜の午後だった。

 驚いたのは、次の日の日曜日に、彼が一人で教会の礼拝に訪れたのである。私は特に礼拝に誘ったつもりはなかったので、驚くと同時に、主なる神が彼を導いているのをはっきり理解することができた。後で知ったのだが、彼の姉はクリスチャンで、遠くにいる弟の救いのために祈っていたという。その日の礼拝の後、彼の目が前日と全く違って、光を帯びていたのを今でも思い出せる。しばらく礼拝に通ううちに、彼がすごい勢いで解放されているのが、傍から見えるほどであった。誰かに強要されるわけでもなく、一人で礼拝に通い、じっと御言葉を聞き入り、静かに祈っていた。

 しかし、ある時から突然、教会に来なくなってしまった。広場にも彼の姿はなかった。誰も彼がどこに行ったのか知る人はいなかった。随分後になって、彼が広場の近くで、以前よりもさらに激しく回転しながら飛び跳ねているのをみて、彼に話しかけたが、「シチリアに戻っていた」と言うだけで、そこで何が起きたか、どうして礼拝に来ないかは教えてくれなかった。

 その後、彼の姿を見なくなって何年にもなる。その間に、多くの人が神の愛に触れながらもそれに背を向けて去っていくのを見てきた。ただ、サルバトーレの事を思い出すと、なぜか特別に何とも言えないやるせなさを覚える。