an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

盲目のイサクと神の計画

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創世記27:1-4

1 イサクは年老い、目がかすんで見えなくなった時、長子エサウを呼んで言った、「子よ」。彼は答えて言った、「ここにおります」。 

2 イサクは言った。「わたしは年老いて、いつ死ぬかも知れない。 

3 それであなたの武器、弓矢をもって野に出かけ、わたしのために、しかの肉をとってきて、 

4 わたしの好きなおいしい食べ物を作り、持ってきて食べさせよ。わたしは死ぬ前にあなたを祝福しよう」。

  イサクの父アブラハムは、百歳になってもその視力は衰えず、天の星を見上げることができたが、晩年のイサクはほぼ全盲に近い状態だったことがこのエピソードによってわかる。しかし、もしイサクが全盲でなく、アブラハムのような健常な視力を持っていたとしたら、双子の弟ヤコブが兄エサウのふりをしてイサクの祝福を受けることはできなかっただろう。

 神の計画は、人間の善悪の判断をはるかに超える深遠なものである。確かに、一杯のレンズ豆の煮物で長子の権利を弟に売ったエサウは、その軽率さを悔いることになり、悪知恵を使ってヤコブを指図した母リベカは、「子よ、あなたがうけるのろいはわたしが受けます」(13節)という自分の言葉通り、最愛の息子ヤコブと生き別れることになり、復讐に燃えるエサウから逃れて、母の兄ラバンのもとに身を隠したヤコブが、皮肉なことにその自分の叔父に騙され、二十年近くこき使われることになる。人間は自分の取った行動の責任を取るという前提において、選択の自由が与えられている存在である。しかし、人間の思惑によって起こり得るそれらの全ての上に神の主権があり、それらの真ん中を神の御旨が貫き、それらの全ての土台に神の愛の計画があるのである。

 だからこそ、老いや病気、試練、経済的困難、不和、失望の中にあっても、聖書の中に啓示されている神の計画を思い、その実現を信じることによって、私達の魂はキリストの光と平安に包まれるのである。

ローマ8:28-30

28 神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。

29 なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。

30 神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました。