an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

公園を出て

f:id:eastwindow18:20140203052304j:plain

 公園の中で小さな子供が自転車に乗ることを練習している。親は最初心配そうに手を添えてついてゆくが、やがてそれも必要なくなる。一人で自転車に乗れるようになると、子供は自分の世界が拡がったかのように喜び、得意顔で公園の中をぐるぐる回るようになる。何とも微笑ましい光景だが、やがて子供は、自転車を持っていない子や自転車にまだ乗れない子が公園の中にいると、わざと近くを通って誇示したり、広場一杯に走ることによって、自分のテリトリーの大きさを他の子に主張するようになる。

 そんな子供もやがて理解するのだ。公園の外はとても広く、そこを走ると色々な危険が待ち受けていることを。そして何より、自転車は手段であり、どこへ行くが重要であるということを。

 神学や聖書原語、つまりヘブライ語やギリシャ語を多少かじるようになると陥る非常に初歩的な誘惑がある。全ての「隠れた奥義」を手に入れる鍵を持っている気分になってしまい、自分の「知識」を誇り、その「知識」がないと思い込んでいる他人を卑下してしまうのである。しかし、原語の知識は数ある聖書研究の道具の一つでしかない。重要なのは「自転車に乗れるか、乗れないか」の問題ではなく、「どこへ向かって進んいるか」である。

 小さな公園から出て、地図を片手に目的地を確かめ、主が示す自分の道を進んでいこう。