an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

心の前に御言葉を置く

創世記3:1-6

1 さて主なる神が造られた野の生き物のうちで、へびが最も狡猾であった。へびは女に言った、「園にあるどの木からも取って食べるなと、ほんとうに神が言われたのですか」。 

2 女はへびに言った、「わたしたちは園の木の実を食べることは許されていますが、 

3 ただ園の中央にある木の実については、これを取って食べるな、これに触れるな、死んではいけないからと、神は言われました」。 

4 へびは女に言った、「あなたがたは決して死ぬことはないでしょう。 

5 それを食べると、あなたがたの目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです」。 

6 女がその木を見ると、それは食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われたから、その実を取って食べ、また共にいた夫にも与えたので、彼も食べた。 

 「女がその木を見ると、それは食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われた」。確かに神はエデンの園の木を「食べるに良く、目には美しい」ものとして創造された。

 創世記2:9

また主なる神は、見て美しく、食べるに良いすべての木を土からはえさせ、更に園の中央に命の木と、善悪を知る木とをはえさせられた。 

  しかし「賢くなるには好ましい」という要素は、エバのイマジネーションにしか過ぎなかった。蛇の狡猾な言葉に影響され、彼女の想像力は真理の境界線を越えて偽りの領域に入ってしまった。想像の自由は、神が人間に与えたものである。それと同時に、その想像を管理するのは人間の責任である。よく言うように、あなたの頭の上を鳥が飛びまわることは避けられないかもしれないが、その鳥が頭の上に巣を作るなら、それはあなたの責任である。「賢くなるには好ましい」という思いが頭に浮かんでから実際に善悪を知る木の実に手を伸ばすまでに、エバは神の戒めを間に置いておかなければいけなかった。

 感情、印象、思考、霊的好奇心、欲望、確信。時には外的刺激により、時には内側から湧きだすそれらの全てのもの(善いと思う事も悪いと思う時も含めて全て)と私達の心の間に、主イエス・キリストと御言葉を置くことは欠かせられない。

詩篇16:8

わたしは常に主をわたしの前に置く。主がわたしの右にいますゆえ、わたしは動かされることはない。

詩篇119:11,30

11 わたしはあなたにむかって罪を犯すことのないように、心のうちにみ言葉をたくわえました。

30 わたしは真実の道を選び、あなたのおきてをわたしの前に置きました。