an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

「良心のへそ」で起こること

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 古くはローマ帝国の時代から「Umbilicus Italiae(イタリアのへそ)」と呼ばれていた小さな町がある。リエーティという町で、「へそ」という表現からわかる通り、イタリアの国土のちょうど真ん中に位置する。日本の静岡県伊東市と姉妹都市提携を結んでいるという理由で、以前個人的に興味を持ってこの町について調べたことがあった。

 この人口五万人にも届かない小さな町が、今、イタリアのニュース面を騒がしている。(Rieti, suora partorisce un bimbo - Tgcom24)三十二歳のエルサルバドル出身の修道女が、今月十五日に病院で男の子を出産したからである。本人は全く妊娠している自覚がなかったらしく(!)、腹部のふくらみに関しては、持病の胃炎が原因だと思っていたということだ。結局、昨年春にパスポートの更新のために母国に一時帰国した際に、昔の恋人と会ったことが原因だったことを告白したという。

 西洋教会史を少しでも学んだ人なら、この事件が過去に起きた無数の不祥事のリストと比較して、特別にスキャンダラスであるとは判断しないだろう。私がなぜこのゴシップ的に扱われている出来事について記事に書こうと思ったかというと、この修道女が「自分は良心の呵責を感じていない」と言っているという箇所を読んだからである。これはかなり自分に偽らなければ言えないことだと思う。一人の女性が新しい命を授かり、出産するということは、その人の生命の根底を揺さぶるようなことではないだろうか。ましてや、この女性は『貞潔の誓い』をして修道女として自分を捧げて生きていたのである。もし自分に正直だったら、決して「良心の呵責はありません」とは言えなかっただろう。実際、妊娠している事を告げた医師らに対して、彼女は「私は修道女ですから、生むことはできません」と言ったのだから、「自分がしてはならないこと」を明確に自覚していたのである。

 私はこの女性が、自分の良心を慢性的に少しずつ欺く霊的環境にいたのではないかと推測する。誓いを破る行為だと自覚しつつ性行為をし、体調の変化に妊娠したのではないかと薄々気付きながらも「胃炎が原因だ」と自己暗示し、修道女としての人生が終ってしまったと知りながら、「良心の呵責はない」と開き直ってしまう。

 しかし、これは決してこの女性一人の問題ではなく、信じている教義の問題であり、また私達一人ひとりの問題でもある。教義の問題と言ったのは、聖書の中に以下のような啓示があるからである。

Ⅰテモテ4:1-5

1 しかし、御霊は明らかに告げて言う。後の時になると、ある人々は、惑わす霊と悪霊の教とに気をとられて、信仰から離れ去るであろう。 

2 それは、良心に焼き印をおされている偽り者の偽善のしわざである。 

3 これらの偽り者どもは、結婚を禁じたり、食物を断つことを命じたりする。しかし食物は、信仰があり真理を認める者が、感謝して受けるようにと、神の造られたものである。 

4 神の造られたものは、みな良いものであって、感謝して受けるなら、何ひとつ捨てるべきものはない。 

5 それらは、神の言と祈とによって、きよめられるからである。 

  自分では守れないし、守っていないことを知っているのに戒律を定め、それを守るように教える矛盾。越えられないハードルを置き、持ち上げることができない重荷を目の前に置くことで霊的になったと思い込む偽善。神はこのような私達の罪深い性質を知り、キリストの十字架によって解放してくださるのに、頑なに自分の義を誇ろうとする傲慢。そしてこのような性質に神が光を当てると、「自分は関係ない」と心を閉ざし、身を隠そうとする自己欺瞞。ちょうど彼女が所属していた修道院が、「彼女は誰に対しても何も悪いことはしていません。なぜ世間がこれ程注目するのか全く理解できません」と言いながらも、出産した自分たちの「姉妹」に対して門を閉じたように、自分の中にある偽善を映し出す「鏡」を受け入れずに、自己保身だけを考える。そこには本当の赦しや癒しもなく、魂の真の解放もあり得ない。

 今回、『イタリアのへそ』で起きた事件は、私達の『良心のへそ』で起きることに対する痛烈な教訓である。