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夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

無邪気ではいられない(4)エルサレムの第三神殿の建設

ダニエル9:25-27

25 それゆえ、エルサレムを建て直せという命令が出てから、メシヤなるひとりの君が来るまで、七週と六十二週あることを知り、かつ悟りなさい。その間に、しかも不安な時代に、エルサレムは広場と街路とをもって、建て直されるでしょう。 

26 その六十二週の後にメシヤは断たれるでしょう。ただし自分のためにではありません。またきたるべき君の民は、町と聖所とを滅ぼすでしょう。その終りは洪水のように臨むでしょう。そしてその終りまで戦争が続き、荒廃は定められています。 

27 彼は一週の間多くの者と、堅く契約を結ぶでしょう。そして彼はその週の半ばに、犠牲と供え物とを廃するでしょう。また荒す者が憎むべき者の翼に乗って来るでしょう。こうしてついにその定まった終りが、その荒す者の上に注がれるのです」。 

マタイ24:15

預言者ダニエルによって言われた荒らす憎むべき者が、聖なる場所に立つのを見たならば(読者よ、悟れ)、 

Ⅱテサロニケ2:3,4

3 だれがどんな事をしても、それにだまされてはならない。まず背教のことが起り、不法の者、すなわち、滅びの子が現れるにちがいない。 

4 彼は、すべて神と呼ばれたり拝まれたりするものに反抗して立ち上がり、自ら神の宮に座して、自分は神だと宣言する。 

黙示6:1,2

1 小羊がその七つの封印の一つを解いた時、わたしが見ていると、四つの生き物の一つが、雷のような声で「きたれ」と呼ぶのを聞いた。 

2 そして見ていると、見よ、白い馬が出てきた。そして、それに乗っている者は、弓を手に持っており、また冠を与えられて、勝利の上にもなお勝利を得ようとして出かけた。 

 「荒す者が憎むべき者」「不法の者」「滅びの子」「白い馬に乗った者」は、来る大患難の時代に現われる「反キリスト」のことを指していると言われている。この反キリストは、大患難の前半期にその卓越した政治能力によって中東に和平をもたらし、現状では不可能であるエルサレムの第三神殿の建設とその神殿におけるユダヤ教の礼拝の復元をもたらすだろう。

 何しろ現在「岩のドーム」と呼ばれているイスラム教のモスクがあるところに再建しようというのだから、通常のプロセスではあり得ない事象である。中東戦争覚悟で(それか、もたらすためにか?)強引に再建されるか、中東戦争の後の和平を求める「波」を利用して再建されるか。いずれにせよ、聖書に預言されている通り、第三神殿は建設されるであろう。レビ族による儀式も再開されるだろう。そして反キリストが「自ら神の宮に座して、自分は神だと宣言」し、人々の崇拝を強要する時、第三神殿以外のどこに座すると言うのだろうか(むしろ反キリストはその邪悪な目的のために第三神殿建設を進めさせるだろう)。

 私が「無邪気な」宗教的シオニズムや聖書解釈における「ヘブライ的回帰」に対して繰り返し警告しているのは、これらの「ブーム」が反キリストの邪悪な計画の「布石」として利用されるからである。これらのクリスチャンは、もし今、第三神殿における儀式が再現されたとしたら、どの様な態度を示すだろうか。その「ヘブライ的正統性」に感動して喜ぶのだろうか。

へブル8:4,5

4 そこで、もし彼が地上におられたなら、律法にしたがって供え物をささげる祭司たちが、現にいるのだから、彼は祭司ではあり得なかったであろう。 

5 彼らは、天にある聖所のひな型と影とに仕えている者にすぎない。それについては、モーセが幕屋を建てようとしたとき、御告げを受け、「山で示された型どおりに、注意してそのいっさいを作りなさい」と言われたのである。 

へブル10:1(新共同訳)

いったい、律法には、やがて来る良いことの影があるばかりで、そのものの実体はありません。従って、律法は年ごとに絶えず献げられる同じいけにえによって、神に近づく人たちを完全な者にすることはできません。 

 「現にいるのだから」「年ごとに絶えず献げられる」。いずれの動詞も現在形である。実際、この手紙が書かれたのはエルサレムの神殿がローマ軍によって完全に破壊された西暦七十年よりも前で、福音伝道によってキリストによる真理が啓示されていたにもかかわらず、神殿においてまだ相変わらずレビ族の祭司たちが生け贄をささげていたのである。

 キリストが全てを成就し、天にある実体が啓示され、神に近づく人たちを完全な者にすることができる「大祭司」が与えられているにも関わらず、光に背を向けて自分の影に魅了され、完成品よりもひな型を愛し、レビ人による宗教的祭儀に囚われて天の大祭司をないがしろにする。

 もしこれが「霊的後退」でないとするならば、『へブル人への手紙』に書かれている全ての訓告や激励も、全て意味の無い、ただの言葉の羅列に過ぎないことになるだろう。

 

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