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夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

律法学者、弟子、そして主人(2)新しいものと古いもの

マタイ13:52

そこで、イエスは彼らに言われた、「それだから、天国のことを学んだ学者は、新しいものと古いものとを、その倉から取り出す一家の主人のようなものである」。 

 『律法学者、弟子、そして主人(1)』において、キリストの十字架を通して新しく生まれる体験をし、キリストの復活の命によって生きる信者は、御言葉に魂の糧を求め、御言葉に生きることを本質的な願望とすること、それは引用した聖句のように、天国のことを学んだ学者、「天の御国の弟子となった律法学者」が、奴隷ではなく「一家の主人」のようであるということを考察した。

 そもそも「一家の主人」とはどのような存在だろうか。既に書いたように主人は奴隷や召使とは違い、家に属する事や物の管理を望むようにできる自由を持っている。いつ出入りするのも自由であるし、どの部屋をどのような使い方してもいいわけである。しかしその自由は同時に「責任」を意味する。主人は家を自由に増築することができるが、もし建築法に触れるようなことがあれば、その責任は主人にあるのであって、雇われている召使には当然ないわけである。またその増築のために銀行から資金を借りているとしたら、返済の義務は主人にあるのであって、召使は全く関与していないわけである。

  「一家の主人のようなものである」という表現に注意しなければならない。「一家の主人である」とは言っていないからである。実際、私達は罪と自己愛の奴隷状態から解放されたが、それと同時に神の憐みと恵みによってキリストが私達の主人となったからである。そして「まるで一家の主人のように」自由と責任を与えてくださったのである。つまり他人に何でも責任転嫁しようとする奴隷や子供ではなく、「尊厳ある大人」として扱って下さるのだ。

ヨハネ15:14,15

14 あなたがたにわたしが命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。 

15 わたしはもう、あなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人のしていることを知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼んだ。わたしの父から聞いたことを皆、あなたがたに知らせたからである。

マタイ10:24,25

24 弟子はその師以上のものではなく、僕はその主人以上の者ではない。 25 弟子がその師のようであり、僕がその主人のようであれば、それで十分である。もし家の主人がベルゼブルと言われるならば、その家の者どもはなおさら、どんなにか悪く言われることであろう。 

 次に主人の行動についても考察してみよう。「新しいものと古いものとを、その倉から取り出す」。大変興味深い表現である。「古いものをその倉から取り出して、新しいものと取り換える」とは書いていない。「新しいものと古いもの」を取り出すのである。これは「律法による契約に基づく啓示」と「恵みの契約に基づく啓示」のことを示している。分かりやすく言えば、旧約聖書の啓示と新約聖書の啓示のことである。

 例えば、実際の聖書の中からいくつかの例を挙げてみたい。イエス・キリストは山上の垂訓の中で何回も繰り返している言い回しがある。

マタイ5:21,22

21 昔の人々に『殺すな。殺す者は裁判を受けねばならない』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。 

22 しかし、わたしはあなたがたに言う。兄弟に対して怒る者は、だれでも裁判を受けねばならない。兄弟にむかって愚か者と言う者は、議会に引きわたされるであろう。また、ばか者と言う者は、地獄の火に投げ込まれるであろう。 

5:27,28

27 『姦淫するな』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。

28  しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。

5:31-34

31 また『妻を出す者は離縁状を渡せ』と言われている。 

32 しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、不品行以外の理由で自分の妻を出す者は、姦淫を行わせるのである。また出された女をめとる者も、姦淫を行うのである。 

33 また昔の人々に『いつわり誓うな、誓ったことは、すべて主に対して果せ』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。 

34 しかし、わたしはあなたがたに言う。いっさい誓ってはならない。天をさして誓うな。そこは神の御座であるから。

5:38,39

38 『目には目を、歯には歯を』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。 

39 しかし、わたしはあなたがたに言う。悪人に手向かうな。もし、だれかがあなたの右の頬を打つなら、ほかの頬をも向けてやりなさい。

5:43,44

43 『隣り人を愛し、敵を憎め』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。 

44 しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ。  

 「 Aと言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし、わたしはあなたがたに言う。Bをしなさい。」Aの部分はモーセの律法からの引用であり、Bは神の御子イエス・キリストによる律法の完全な解釈であり、補完であり、適用である。イエスはモーセの律法を否定しているのではなく、キリストの愛の律法へ昇華させているのである。

 使徒パウロはキリストの僕として、同じ真理を「主人のように」説明している。

ローマ13:8-10

8 互に愛し合うことの外は、何人にも借りがあってはならない。人を愛する者は、律法を全うするのである。 

9 「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」など、そのほかに、どんな戒めがあっても、結局「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」というこの言葉に帰する。 

10 愛は隣り人に害を加えることはない。だから、愛は律法を完成するものである。 

 特に「神の義」に関しての説明では、見事に「古いものと新しいもの」を「神の奥義の倉」から取り出している。

ローマ3:19-31

19 さて、わたしたちが知っているように、すべて律法の言うところは、律法のもとにある者たちに対して語られている。それは、すべての口がふさがれ、全世界が神のさばきに服するためである。 

20 なぜなら、律法を行うことによっては、すべての人間は神の前に義とせられないからである。律法によっては、罪の自覚が生じるのみである。 

21 しかし今や、神の義が、律法とは別に、しかも律法と預言者とによってあかしされて、現された。 

22 それは、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、すべて信じる人に与えられるものである。そこにはなんらの差別もない。 

23 すなわち、すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、 

24 彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである。 

25 神はこのキリストを立てて、その血による、信仰をもって受くべきあがないの供え物とされた。それは神の義を示すためであった。すなわち、今までに犯された罪を、神は忍耐をもって見のがしておられたが、 

26 それは、今の時に、神の義を示すためであった。こうして、神みずからが義となり、さらに、イエスを信じる者を義とされるのである。 

27 すると、どこにわたしたちの誇があるのか。全くない。なんの法則によってか。行いの法則によってか。そうではなく、信仰の法則によってである。 

28 わたしたちは、こう思う。人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるのである。 

29  それとも、神はユダヤ人だけの神であろうか。また、異邦人の神であるのではないか。確かに、異邦人の神でもある。 

30 まことに、神は唯一であって、割礼のある者を信仰によって義とし、また、無割礼の者をも信仰のゆえに義とされるのである。 

31 すると、信仰のゆえに、わたしたちは律法を無効にするのであるか。断じてそうではない。かえって、それによって律法を確立するのである。 

 使徒パウロは、「古いもの」と「新しいもの」の性質や役割、目的、効果を「主人が望む通り、主人のように」完璧に理解し、聖霊の霊感によって私達の目の前に取り出してくれた。しかし、それは彼の有能さによるものでは決してない。神が、パリサイ人としてモーセの律法に誰よりも精通していたが、霊的無知の故に教会を迫害していた男を救い、新しく造り変え、天国のことを啓示し、御国の弟子としたからであった。

Ⅰテモテ1:12-17

12 わたしは、自分を強くして下さったわたしたちの主キリスト・イエスに感謝する。主はわたしを忠実な者と見て、この務に任じて下さったのである。 

13 わたしは以前には、神をそしる者、迫害する者、不遜な者であった。しかしわたしは、これらの事を、信仰がなかったとき、無知なためにしたのだから、あわれみをこうむったのである。 

14 その上、わたしたちの主の恵みが、キリスト・イエスにある信仰と愛とに伴い、ますます増し加わってきた。 

15 「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世にきて下さった」という言葉は、確実で、そのまま受けいれるに足るものである。わたしは、その罪人のかしらなのである。 

16 しかし、わたしがあわれみをこうむったのは、キリスト・イエスが、まずわたしに対して限りない寛容を示し、そして、わたしが今後、彼を信じて永遠のいのちを受ける者の模範となるためである。  

17 世々の支配者、不朽にして見えざる唯一の神に、世々限りなく、ほまれと栄光とがあるように、アァメン。 

  魂の自由と責任感に満ちた「大人」の証しの模範ではないだろうか。

 

)へ続く