an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

他の鍵はいらない

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Ⅱコリント5:13-21

13 もしわたしたちが、気が狂っているのなら、それは神のためであり、気が確かであるのなら、それはあなたがたのためである。 

14 なぜなら、キリストの愛がわたしたちに強く迫っているからである。わたしたちはこう考えている。ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのである。 

15 そして、彼がすべての人のために死んだのは、生きている者がもはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえったかたのために、生きるためである。 

16 それだから、わたしたちは今後、だれをも肉によって知ることはすまい。かつてはキリストを肉によって知っていたとしても、今はもうそのような知り方をすまい。 

17 だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。 

18 しかし、すべてこれらの事は、神から出ている。神はキリストによって、わたしたちをご自分に和解させ、かつ和解の務をわたしたちに授けて下さった。 

19 すなわち、神はキリストにおいて世をご自分に和解させ、その罪過の責任をこれに負わせることをしないで、わたしたちに和解の福音をゆだねられたのである。 

20 神がわたしたちをとおして勧めをなさるのであるから、わたしたちはキリストの使者なのである。そこで、キリストに代って願う、神の和解を受けなさい。 

21 神はわたしたちの罪のために、罪を知らないかたを罪とされた。それは、わたしたちが、彼にあって神の義となるためなのである。

Ⅰコリント13:2

たといまた、わたしに預言をする力があり、あらゆる奥義とあらゆる知識とに通じていても、また、山を移すほどの強い信仰があっても、もし愛がなければ、わたしは無に等しい。 

 「かつてはキリストを肉によって知っていたとしても、今はもうそのような知り方をすまい。」たとい私達が「ユダヤ人としてのイエス」の地上における生涯についてや「聖書のヘブライ的解釈」に関して、一般的には知られていない詳細な知識を持っていたとしても、キリストの犠牲の愛を知り、その痛いほど強烈な愛に動されているのでなければ、私達の知識は勿論のこと、私達自身も空しい存在である。

 私達は霊的無知の中で彷徨っていた。しかしもし私達が救われ、全く新しくされたと告白できるとしたら、それは聖書の神学的知識の蓄積によるのではなく、キリストの愛を個人的に経験したからだったということを忘れてはならない。

ガラテヤ2:18

もしわたしが、いったん打ちこわしたものを、再び建てるとすれば、それこそ、自分が違反者であることを表明することになる。 

  御子イエスが十字架の死によって打ち壊した「隔たりの壁」を、私達が霊的奥義だと思い込んでいる「隠されていた義の知識」によって、救われべき魂の前に障害を再び築きあげていないか、よく省みる必要がある。

 キリストは自らの犠牲の死を通して、「救いの扉の鍵穴に鍵を差し込んで」くださった。神のことなど全く関心を持たず、罪深い人生に閉じ込められた人でも、求めたものを全て手に入れてきたが、誰にも本気で愛されていない孤独な自分を隠している人でも、救いを求めて扉を開けようとする人は誰でも、中に入ることができるように神は備えてくださった。その神が備えてくださった「知識の鍵」だけで、誰でも救いの扉を開けて入ることができるのである。

 だからキリストが律法学者に対して語った戒めの言葉が、自分自身に対して適用されないように、注意しなければならない。

ルカ11:52(新改訳)

忌まわしいものだ。律法の専門家たち。あなたがたは、知識のかぎを持ち去り、自分もはいらず、はいろうとする人々をも妨げたのです。