an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

高価な肥やし

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ルカ13:6-9(新改訳)

6 イエスはこのようなたとえを話された。「ある人が、ぶどう園にいちじくの木を植えておいた。実を取りに来たが、何も見つからなかった。

7 そこで、ぶどう園の番人に言った。『見なさい。三年もの間、やって来ては、このいちじくの実のなるのを待っているのに、なっていたためしがない。これを切り倒してしまいなさい。何のために土地をふさいでいるのですか。』

8 番人は答えて言った。『ご主人。どうか、ことし一年そのままにしてやってください。木の回りを掘って、肥やしをやってみますから。

9 もしそれで来年、実を結べばよし、それでもだめなら、切り倒してください。』」

 この喩話は、一節から六節までの「悔い改めの必要性」と「悔い改めが無い場合の裁き」というメッセージの続きとして語られたものである。三節と五節に「そうではない。私はあなたがたに言います。あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます」と繰り返されているので、まず直接的にはイスラエルの人々に対して語られたものである。「三年もの間、やって来ては、このいちじくの実のなるのを待っている」という表現は、イエス・キリストの地上における公的働きの期間を暗示している。彼はエルサレムを中心とした神の選民が悔い改めの実を結ぶことを求めたが、「なっていたためしがない」と判断するしかなかった。エルサレムを前に嘆いた彼の言葉からも理解できる。

マタイ23:37-39

37 ああ、エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、おまえにつかわされた人たちを石で打ち殺す者よ。ちょうど、めんどりが翼の下にそのひなを集めるように、わたしはおまえの子らを幾たび集めようとしたことであろう。それだのに、おまえたちは応じようとしなかった。 

38 見よ、おまえたちの家は見捨てられてしまう。 

39 わたしは言っておく、『主の御名によってきたる者に、祝福あれ』とおまえたちが言う時までは、今後ふたたび、わたしに会うことはないであろう」。 

ルカ19:41-44

41 いよいよ都の近くにきて、それが見えたとき、そのために泣いて言われた、 

42 「もしおまえも、この日に、平和をもたらす道を知ってさえいたら……しかし、それは今おまえの目に隠されている。 

43 いつかは、敵が周囲に塁を築き、おまえを取りかこんで、四方から押し迫り、 

44 おまえとその内にいる子らとを地に打ち倒し、城内の一つの石も他の石の上に残して置かない日が来るであろう。それは、おまえが神のおとずれの時を知らないでいたからである」。 

  しかし驚くべきことは、「期待したようには悔い改めの実を結ばない木」を切り倒す代わりに、御子イエス自身が「神に呪われ、切り倒された木」のようになり、十字架の上で命を捧げてくださったことである。そして罪びとの救いのために、その尊き血を流してくださった。そして復活を通して、信じる者に聖霊を遣わしてくださったのである。

 イスラエルの民だけでなく、私達が悔い改めの実を結ぶために、神は御子の血と聖霊という、それ以上は存在しない非常に高価な「肥やし」を備えてくださった。カインの供え物のように、私達自身がどんなに努力したところで、全知全能の神を喜ばせるような実を結ぶことはできない。また、どんな災害や悲劇も、それ自体は私達を悔い改めに導くことはできない。ただ、神がそれらのことを通して「私達の回りを深く掘り起こし」、心の一番深い所に届くように、聖霊を通して「キリストの十字架の愛の肥やし」を撒いてくださることによって、はじめて私達の心は神の御前に遜れるのである。

 「もしそれで来年、実を結べばよし、それでもだめなら、切り倒してください。」あとどのくらいの時間が残されているのだろうか。