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夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

イスラエル民族の「純血性」と十字架

ユダヤ問題特集 ver.2.0

<第7章>

『現在も続くシオニストたちの反セム主義活動』より引用

(全てを鵜呑みすることはできないが、参考になる情報が豊富にあるサイトである)

●シオニズムについて、ジャック・バーンスタインというアシュケナジー系ユダヤ人は次のように述べている。

 

「実はほとんどのユダヤ人というものは無神論者である。あるいは反神の宗教ともいえるヒューマニズム(人間至上主義)に従っている。だからユダヤ人とは宗教的な人々であり、イスラエル建国は聖書預言の成就であるととらえるのは神話でしかすぎない。しかもユダヤ人が単一民族であるというのはもっと神話である。アシュケナジーとスファラディの間には完全なる区別がある。これこそ最大の証拠である。イスラエルで行なわれている人種差別は、イスラエルという国家を遅かれ早かれ自滅させてしまうことになるだろう……」

 

 

●サザン・バプテストの「新約聖書学」教授フランク・スタッグは、以下のような見解を述べている。

 

「今日のイスラエル国家は数ある国々の一つにすぎない。それは他のあらゆる政治国家と同様に“政治国家としての運命”を辿らなければならない。他のあらゆる政治国家のように判断されなければならない。現在のイスラエルの国や国民を“神のイスラエル”とすることは、『新約聖書』の教えにおいて致命的な誤りを犯している。」

 

 

●また、プレズビテリアンの「旧約聖書学」教授オーバイド・セラーも、このことを次のように結論づけている。

 

「現代のパレスチナにあるユダヤ国家は、聖書や聖書預言によって正当化されるものであるというZionistたちの主張を支持するものは、『旧約聖書』にも『新約聖書』にもないということに私とともに研究している者たち全てが同意している。更に聖書預言という“約束”は、ユダヤ人やZionistだけではなく全人類に適用されるべきものである! “勝利”“救い”という言葉は本当の聖書の意味としては宗教的・霊的なものであって、政治的な敵を征服するとか崩壊させるとかいう意味のものではない。」

 

「『新約聖書』を信じるキリスト教徒であるならば、もともとそこに住んでいた人々から政治的、また軍事的力によって奪い取ってつくった現代のイスラエル共和国を、キリスト教徒の信仰の神の“イスラエル”と混同させてはならない。これら2つのイスラエルというものは完全に対立しているものなのである。」

 

 

●厳格な反シオニズムで超正統派ユダヤ教徒グループ「ナトレイ・カルタ」の指導者であるラビ・モシェ・ヒルシュは、1992年に以下のような声明を発表した。ちなみに彼は自らを“パレスチナ人”と呼んでいる。アシュケナジー系ユダヤ人なのであるが、パレスチナ人と同じ心を持っているという意味なのである。

 

「敵であるZionistと私たちの戦いは、妥協の余地のない、まさに“神学戦争”なのである。」

 

「ユダヤ人たちが全世界に追放されたのは、神の意志によるのであって、彼らが神の律法を守らなかったためである。あらゆる苦難をへて、メシア(救世主)が到来するまでそれは続く。メシア到来によってのみそれが終わるのである。それゆえに、Zionistあるいはその関係機関が神を無視して世界中からユダヤ人たちに帰ってくるように強要するのは、ユダヤ人たちをいよいよ危険に陥れる“不敬の罪”を犯していることになる。」

 

「もしZionistが神を無視し続けるならば事は重大である。ここ、すなわちイスラエルは地上で最も危険な場所となろう。」

 そもそもイスラエル民族の「純血性」の主張自体、空虚なものである。「アシュケナジーの問題」を出すまでもない。聖書の根拠だけで十分理解できることである。

 ヨセフの子マナセとエフライムは、イシマエルと同様、セム族でないハム族のエジプト人との混血であり、モーセの子ゲルショムとエリエゼルも同じくハム族のクシ人との混血、ダヴィデ王にはモアブ人の血が、ソロモン王の子レハベアムにはアンモン人の血が流れているのだ。バビロニア捕囚から帰還した祭司階級の中でも、異邦人の女性と結婚し子供をつくっていた人々が非常に多くいた(エズラとネヘミヤによって追放されたが)ぐらいであるから、他の部族に関しても想像が付くだろう。そしてイエス・キリストの系図を読めば、少なくともエジプト人とモアブ人とアンモン人の血筋が啓示されている。

 しかし何よりも、イエスは「神の御子」として御自身を人類に啓示したのに対して、彼らは律法を基に「神の名を冒涜する偽者」として裁いたのである。仮に生物学的純血性や正統性が存在したとしても、それによってどんな優位性を主張できるというのだろうか。

 使徒パウロは、イエス・キリストの十字架の死によってその主張の無意味さを個人的に体験し、完全に理解していたので、以下のように書いたのである。

ピリピ3:5-9

5 わたしは八日目に割礼を受けた者、イスラエルの民族に属する者、ベニヤミン族の出身、ヘブル人の中のヘブル人、律法の上ではパリサイ人、 

6 熱心の点では教会の迫害者、律法の義については落ち度のない者である。 

7 しかし、わたしにとって益であったこれらのものを、キリストのゆえに損と思うようになった。 

8 わたしは、更に進んで、わたしの主キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値のゆえに、いっさいのものを損と思っている。キリストのゆえに、わたしはすべてを失ったが、それらのものを、ふん土のように思っている。それは、わたしがキリストを得るためであり、 

9 律法による自分の義ではなく、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基く神からの義を受けて、キリストのうちに自分を見いだすようになるためである。 

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