an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

イエス・キリストの眼差し

 「使徒行伝に書かれた信仰生活をモデルにしている」というモットーを掲げて、自らの信仰や教会の正統性を主張する個人や教団などがある。私個人、納得できない違和感を感じながらも、よく検証することもなかった。しかし、そのような主張をしていた教会が、大きく躓き、多くの人を躓かせている事例を身近に知る経験を通して、「理想を持つ」「正統性を求める」という善が、検証と自省を欠く場合、自己欺瞞や自己保身、排他主義に簡単に変質してしまう恐ろしさについて考えるようになった。

 例えば単純に「使徒時代の信仰生活」といっても、それを理念化してしまうのは危険である。確かに聖霊が豊かに働いた時期であったし、今もそのような働きを求めるべきだと思う。しかしそのような優れた霊性の時期にあっても、数々の人間的誤りや罪はあったのである。エルサレム教会で起きたアナニヤとサッピラの事件(使徒5章)や、非常に霊的なアンテオケ教会における二人の宣教師パウロとバルナバの分裂(使徒15:35-40)、コリント教会における近親相姦のスキャンダルや、ガラテヤ教会における律法主義的偽善に対する脆弱性、急速に世俗化したラオデキヤ教会など、すべて「使徒時代の教会」のなかで起きたことである。しかし、そのような問題が表面化するたびに、聖霊は教会の自浄のために、時には直接、時には神の僕を通して、厳格に働いていた。そして信徒たちはその働きを神への畏敬の念によって受け入れていたのである。

 私達が周りを見て「こうあるべき」を語るとき、イエス・キリストは「私達の真の姿」を静かに見つめている。そのイエスの視線は、周囲で目に付く「あるべき姿」と「現実の姿」の矛盾が、自分の中にある矛盾と本質的に変わらないという事実を見つめている。もし私達が、そのイエスの眼差しに誠実であるならば、ペテロのように悔い改めに導かれるが、もし不誠実ならば金持ちの青年のように、自己欺瞞の中に身を隠すことになるだろう。

ルカ22:55-62

55  人々は中庭のまん中に火をたいて、一緒にすわっていたので、ペテロもその中にすわった。 

56 すると、ある女中が、彼が火のそばにすわっているのを見、彼を見つめて、「この人もイエスと一緒にいました」と言った。 

57 ペテロはそれを打ち消して、「わたしはその人を知らない」と言った。 

58 しばらくして、ほかの人がペテロを見て言った、「あなたもあの仲間のひとりだ」。するとペテロは言った、「いや、それはちがう」。 

59 約一時間たってから、またほかの者が言い張った、「たしかにこの人もイエスと一緒だった。この人もガリラヤ人なのだから」。 

60 ペテロは言った、「あなたの言っていることは、わたしにわからない」。すると、彼がまだ言い終らぬうちに、たちまち、鶏が鳴いた。 

61 主は振りむいてペテロを見つめられた。そのときペテロは、「きょう、鶏が鳴く前に、三度わたしを知らないと言うであろう」と言われた主のお言葉を思い出した。 

62 そして外へ出て、激しく泣いた。

マルコ10:17-22

17 イエスが道に出て行かれると、ひとりの人が走り寄り、みまえにひざまずいて尋ねた、「よき師よ、永遠の生命を受けるために、何をしたらよいでしょうか」。 

18 イエスは言われた、「なぜわたしをよき者と言うのか。神ひとりのほかによい者はいない。 

19 いましめはあなたの知っているとおりである。『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証を立てるな。欺き取るな。父と母とを敬え』」。 

20 すると、彼は言った、「先生、それらの事はみな、小さい時から守っております」。 

21 イエスは彼に目をとめ、いつくしんで言われた、「あなたに足りないことが一つある。帰って、持っているものをみな売り払って、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、わたしに従ってきなさい」。 

22 すると、彼はこの言葉を聞いて、顔を曇らせ、悲しみながら立ち去った。たくさんの資産を持っていたからである。 

「主は振りむいてペテロを見つめられた」

「イエスは彼に目をとめ、いつくしんで言われた」

 主イエス・キリストの慈しみ満ちた眼差しは、今も私達に向けられており、その言葉は静かに語りかけている。