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夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

キリストが十字架にかけられた日(2)

 キリストが十字架に架けられた日について検証する時だけでなく、聖書全般を読むときに大切なことは、当時の環境は現代のそれとは様々な点で異なっていたことを意識することである。(1)のところで書いた通り、新約聖書が書かれた時代には、西暦という概念も、制定化された太陰暦も、「曜日」の概念もなかったからである。また私達が普通に持っている時計は当然使われておらず、一日は日没から始まり、日没から日の出までを十二等分した一時刻の長さは季節によって異なり、また同じく十二等分された日の出から日没までの昼の一時刻は夜の一時刻の長さと異なるという、今の感覚からすると大変複雑なシステムを使っていた(逆に時計がない環境下では、一番合理的なのかもしれないが)。

 共観福音書(マタイ、マルコ、ルカ)の記述を基にすると、イエスの十字架刑の日は、ユダヤ暦の正月にあたる「アビブ(ニサン)の月」の第十五日、除酵祭の第一日の午後三時頃となる。

マタイ26:17,20

17 さて、除酵祭の第一日に、弟子たちはイエスのもとにきて言った、「過越の食事をなさるために、わたしたちはどこに用意をしたらよいでしょうか」。 

20 夕方になって、イエスは十二弟子と一緒に食事の席につかれた。 

マルコ14:12

除酵祭の第一日、すなわち過越の小羊をほふる日に、弟子たちがイエスに尋ねた、「わたしたちは、過越の食事をなさる用意を、どこへ行ってしたらよいでしょうか」。

ルカ22:7

さて、過越の小羊をほふるべき除酵祭の日がきたので、 

 ここでもユダヤ教の習慣になじみのない異邦人が判りやすいように、「除酵祭の第一日」が「過越の子羊を屠る日」と書かれているが、ユダヤ暦上では第十四日の日没を挟んで足かけ二日のことを指している。実際、モーセの律法には以下のように定められていた。

出エジ12:1-11

1 主はエジプトの国で、モーセとアロンに告げて言われた、 

2 「この月をあなたがたの初めの月とし、これを年の正月としなさい。 

3 あなたがたはイスラエルの全会衆に言いなさい、『この月の十日におのおの、その父の家ごとに小羊を取らなければならない。すなわち、一家族に小羊一頭を取らなければならない。 

4 もし家族が少なくて一頭の小羊を食べきれないときは、家のすぐ隣の人と共に、人数に従って一頭を取り、おのおの食べるところに応じて、小羊を見計らわなければならない。 

5 小羊は傷のないもので、一歳の雄でなければならない。羊またはやぎのうちから、これを取らなければならない。 

6 そしてこの月の十四日まで、これを守って置き、イスラエルの会衆はみな、夕暮にこれをほふり、 

7 その血を取り、小羊を食する家の入口の二つの柱と、かもいにそれを塗らなければならない。 

8 そしてその夜、その肉を火に焼いて食べ、種入れぬパンと苦菜を添えて食べなければならない。 

9 生でも、水で煮ても、食べてはならない。火に焼いて、その頭を足と内臓と共に食べなければならない。 

10 朝までそれを残しておいてはならない。朝まで残るものは火で焼きつくさなければならない。 

11 あなたがたは、こうして、それを食べなければならない。すなわち腰を引きからげ、足にくつをはき、手につえを取って、急いでそれを食べなければならない。これは主の過越である。

レビ23:5-8(新共同訳)

5 第一の月の十四日の夕暮れが主の過越である。

6 同じ月の十五日は主の除酵祭である。あなたたちは七日の間、酵母を入れないパンを食べる。

7 初日には聖なる集会を開く。いかなる仕事もしてはならない。

8 七日の間、燃やして主にささげる献げ物を続けて、七日目に聖なる集会を開く。いかなる仕事もしてはならない。

申命16:1-6

1 あなたはアビブの月を守って、あなたの神、主のために過越の祭を行わなければならない。アビブの月に、あなたの神、主が夜の間にあなたをエジプトから導き出されたからである。

2 主がその名を置くために選ばれる場所で、羊または牛をあなたの神、主に過越の犠牲としてほふらなければならない。

3 種を入れたパンをそれと共に食べてはならない。七日のあいだ、種入れぬパンすなわち悩みのパンを、それと共に食べなければならない。あなたがエジプトの国から出るとき、急いで出たからである。こうして世に生きながらえる日の間、エジプトの国から出てきた日を常に覚えなければならない。

4 その七日の間は、国の内どこにもパン種があってはならない。また初めの日の夕暮にほふるものの肉を、翌朝まで残しておいてはならない。

5 あなたの神、主が賜わる町の内で、過越の犠牲をほふってはならない。

6 ただあなたの神、主がその名を置くために選ばれる場所で、夕暮の日の入るころ、あなたがエジプトから出た時刻に、過越の犠牲をほふらなければならない。

 つまり、「アビブの月」の第十四日目の日没前に、過越の子羊を屠り、日没と同時に始まっていた第十五日の夜にそれを食べなければいけなかったのである。夜中の十二時までを一日とする概念からすると、両方とも一日の中に含まれることになる。

 所謂「最後の晩餐」といわれるイエスが弟子達と共にした過越しの食事は、第十五日の日没から夜にかけて行われたことになる。

(過越しの食事における杯に関して興味深い考察があったので参照していただきたい。「この杯」が意味するもの - 牧師の書斎 特に脚注の「完了の杯」の部分、過越しの食事からゲツセマネにおける祈り、そして十字架の死に至るまでの一連性が書かれている。)

 実際、ゲツセマネでイエス・キリストが眠り込んでしまっていた弟子達を三度も起こしたのは、律法における根拠があったのである。

 出エジ12:42

これは彼らをエジプトの国から導き出すために主が寝ずの番をされた夜であった。ゆえにこの夜、すべてのイスラエルの人々は代々、主のために寝ずの番をしなければならない。 

 このようにイエス・キリストは、細部に至るまで全ての事において律法を守り、その成就を目的に行動していたことが理解できる。

 共観福音書によると、そのゲツセマネの園において、除酵祭の第一日目、つまりイスラエルの民がエジプトの奴隷状態から解放されたことを記念する夜、奴隷にすら完全な休息を保障していた聖なる安息日に、神の御子イエス・キリストは犯罪人のように逮捕され、連行されたことになる(ここにも実体の伴わない宗教的祭日や儀式の偽善が見事あらわれている)。ある安息日に十八年間もサタンに束縛されていた一人の女性を解放したイエスが、安息日であっても自分の牛やろばは家畜小屋から解いていた偽善者らの手によって捕らわれの身となったのである(参照 ルカ13:10-16)。

 

)に続く