箴言14:4(新共同訳)
牛がいなければ飼い葉桶は清潔だが/豊作をもたらすのは牛の力。
黙示録3:14-22
14 ラオデキヤにある教会の御使に、こう書きおくりなさい。『アァメンたる者、忠実な、まことの証人、神に造られたものの根源であるかたが、次のように言われる。
15 わたしはあなたのわざを知っている。あなたは冷たくもなく、熱くもない。むしろ、冷たいか熱いかであってほしい。
16 このように、熱くもなく、冷たくもなく、なまぬるいので、あなたを口から吐き出そう。
17 あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、なんの不自由もないと言っているが、実は、あなた自身がみじめな者、あわれむべき者、貧しい者、目の見えない者、裸な者であることに気がついていない。
18 そこで、あなたに勧める。富む者となるために、わたしから火で精錬された金を買い、また、あなたの裸の恥をさらさないため身に着けるように、白い衣を買いなさい。また、見えるようになるため、目にぬる目薬を買いなさい。
19 すべてわたしの愛している者を、わたしはしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって悔い改めなさい。
20 見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう。
21 勝利を得る者には、わたしと共にわたしの座につかせよう。それはちょうど、わたしが勝利を得てわたしの父と共にその御座についたのと同様である。
22 耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい』」。
ラオデキヤの教会は、主イエス・キリストの中にある真の「豊作」よりも、自分の「飼い葉桶が清潔である」ことを選んでしまった。十分に富んで何の不自由もないという偽りの自己満足で、信仰者としての生活を「小奇麗に」まとめていたのである。
確かに「日曜菜園」には「牛」が必要だとは感じないかもしれない。しかしもし「豊作」を望むなら、「牛」の力なくしては不可能である。そこには「日々の細かい世話仕事」が不可欠であり、何より自分勝手にはできないという「命に対する畏敬の念」が必要である。
ルカ9:23,24
23 それから、みんなの者に言われた、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。
24 自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを救うであろう。