an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

復活したイエス・キリストとの交わり

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ルカ24:13-16;30,31,35

13 この日、ふたりの弟子が、エルサレムから七マイルばかり離れたエマオという村へ行きながら、 

14 このいっさいの出来事について互に語り合っていた。 

15 語り合い論じ合っていると、イエスご自身が近づいてきて、彼らと一緒に歩いて行かれた。 

16 しかし、彼らの目がさえぎられて、イエスを認めることができなかった。 

30 一緒に食卓につかれたとき、パンを取り、祝福してさき、彼らに渡しておられるうちに、 

31 彼らの目が開けて、それがイエスであることがわかった。すると、み姿が見えなくなった。

35 そこでふたりの者は、途中であったことや、パンをおさきになる様子でイエスだとわかったことなどを話した。 

ヨハネ20:14-16

14 そう言って、うしろをふり向くと、そこにイエスが立っておられるのを見た。しかし、それがイエスであることに気がつかなかった。 

15 イエスは女に言われた、「女よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか」。マリヤは、その人が園の番人だと思って言った、「もしあなたが、あのかたを移したのでしたら、どこへ置いたのか、どうぞ、おっしゃって下さい。わたしがそのかたを引き取ります」。 

16 イエスは彼女に「マリヤよ」と言われた。マリヤはふり返って、イエスにむかってヘブル語で「ラボニ」と言った。それは、先生という意味である。 

ヨハネ21:4,12

4 夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。しかし弟子たちはそれがイエスだとは知らなかった。

12 イエスは彼らに言われた、「さあ、朝の食事をしなさい」。弟子たちは、主であることがわかっていたので、だれも「あなたはどなたですか」と進んで尋ねる者がなかった。 

 引用した聖句はいずれも、主イエス・キリストと共に三年間寝食を共にしていた弟子達が、十字架の死から復活したキリストを肉体的外観では識別できず、もっと深いアイデンティティーよって認識することができたことを語っている。

 確かに復活したイエスはただ単に霊的な存在ではなかった。確かに目に見える体をもち、弟子達と共に歩き、パンを取り、それを割く手をもっていた。確かにそこに臨在し、目には見えるが、その目に映る要素は彼らが三年間に見慣れたものではなかったのだ。キリストが復活から父のもとに昇天する前の特殊な期間のエピソードであるが、大変興味深い。

 使徒パウロは復活の体に関して説明している。

Ⅰコリント15:35-53

35 しかし、ある人は言うだろう。「どんなふうにして、死人がよみがえるのか。どんなからだをして来るのか」。 

36 おろかな人である。あなたのまくものは、死ななければ、生かされないではないか。 

37 また、あなたのまくのは、やがて成るべきからだをまくのではない。麦であっても、ほかの種であっても、ただの種粒にすぎない。 

38 ところが、神はみこころのままに、これにからだを与え、その一つ一つの種にそれぞれのからだをお与えになる。 

39 すべての肉が、同じ肉なのではない。人の肉があり、獣の肉があり、鳥の肉があり、魚の肉がある。 

40 天に属するからだもあれば、地に属するからだもある。天に属するものの栄光は、地に属するものの栄光と違っている。 

41 日の栄光があり、月の栄光があり、星の栄光がある。また、この星とあの星との間に、栄光の差がある。 

42 死人の復活も、また同様である。朽ちるものでまかれ、朽ちないものによみがえり、 

43 卑しいものでまかれ、栄光あるものによみがえり、弱いものでまかれ、強いものによみがえり、 

44 肉のからだでまかれ、霊のからだによみがえるのである。肉のからだがあるのだから、霊のからだもあるわけである。 

45 聖書に「最初の人アダムは生きたものとなった」と書いてあるとおりである。しかし最後のアダムは命を与える霊となった。 

46 最初にあったのは、霊のものではなく肉のものであって、その後に霊のものが来るのである。 

47 第一の人は地から出て土に属し、第二の人は天から来る。 

48 この土に属する人に、土に属している人々は等しく、この天に属する人に、天に属している人々は等しいのである。 

49 すなわち、わたしたちは、土に属している形をとっているのと同様に、また天に属している形をとるであろう。 

50 兄弟たちよ。わたしはこの事を言っておく。肉と血とは神の国を継ぐことができないし、朽ちるものは朽ちないものを継ぐことがない。 

51 ここで、あなたがたに奥義を告げよう。わたしたちすべては、眠り続けるのではない。終りのラッパの響きと共に、またたく間に、一瞬にして変えられる。 

52 というのは、ラッパが響いて、死人は朽ちない者によみがえらされ、わたしたちは変えられるのである。 

53 なぜなら、この朽ちるものは必ず朽ちないものを着、この死ぬものは必ず死なないものを着ることになるからである。 

  今持っている血肉による肉体とは異なる、栄光ある、朽ちない、天に属する霊の体。さっぱりイメージできないかもしれないが、恐れることはない。使徒ヨハネでさえ判らなかったのだから。

Ⅰヨハネ3:2,3

2 愛する者たちよ。わたしたちは今や神の子である。しかし、わたしたちがどうなるのか、まだ明らかではない。彼が現れる時、わたしたちは、自分たちが彼に似るものとなることを知っている。そのまことの御姿を見るからである。

3 彼についてこの望みをいだいている者は皆、彼がきよくあられるように、自らをきよくする。 

 主イエス・キリストが再臨するとき、彼の「まことの御姿」を見、それと同時にイエスに希望を託して生きてきた人は、「彼に似る者」となるのである。この御子との相似化は、表面的・外面的なものでなく、信じる人の核心的なアイデンティティーがキリストと似たものになることを啓示している。何という深遠な啓示であろうか。

 しかし聖書は、地上の人生の間にキリストを信じないで救いを拒否した人々も、終わりの時に復活の体をもつことが啓示されている。

黙示録20:11-15

11 また見ていると、大きな白い御座があり、そこにいますかたがあった。天も地も御顔の前から逃げ去って、あとかたもなくなった。 

12 また、死んでいた者が、大いなる者も小さき者も共に、御座の前に立っているのが見えた。かずかずの書物が開かれたが、もう一つの書物が開かれた。これはいのちの書であった。死人はそのしわざに応じ、この書物に書かれていることにしたがって、さばかれた。 

13 海はその中にいる死人を出し、死も黄泉もその中にいる死人を出し、そして、おのおのそのしわざに応じて、さばきを受けた。 

14 それから、死も黄泉も火の池に投げ込まれた。この火の池が第二の死である。 

15 このいのちの書に名がしるされていない者はみな、火の池に投げ込まれた。 

 「死も黄泉もその中にいる死人を出し、そして、おのおのそのしわざに応じて、さばきを受けた」。肉体の死が暗闇の中に「持ち去って」隠していた秘密や、時の流れが忘却の彼方に置き忘れていた一つ一つの仕業が、神の前に出され、正しい神によって裁かれるというのである。肉体的な健康や社会的評価など「外側のアイデンティティー」に覆い隠されていて、自分自身さえよく把握できない、最も深い所に隠れているアイデンティティーが、「裸」で神の裁きの前に立たなければいけなくなるのである。

 思慮の浅い五人の乙女たちに対して、主人は『はっきり言うが、わたしはあなたがたを知らない』と答えた(マタイ25:12)。全てをご存じの方が「わたしはあなたがたを知らない」と答えるのは、この隠れたところにおけるキリストとの交わりがないためであろう。「自分は神を信じている」と言っても、この核心的・人格的交わりをおろそかにしている危険は誰でも持っている。宗教的善行や奇蹟さえも、その欠落を補うことはできないのである。

マタイ7:21-23

21 わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。 

22 その日には、多くの者が、わたしにむかって『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。 

23 そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』。 

  このような恐ろしい裁きを受けないための唯一の解決策は、イエス・キリストの十字架である。この十字架によって、朽ち往く表層的なアイデンティティーはキリストと共に十字架につけられ葬られ、キリストの復活した命の中に永遠のアイデンティティーが与えられるのである。

Ⅰコリント6:17

しかし主につく者は、主と一つの霊になるのである。 

  もしかしたら読者の中には、誰かがキリストの栄光の幻を見たという言葉を聞いて「私はそのような幻を見たことがない」といって自分の信仰を疑っているかもしれない。あるいは祈りの中でパトモス島のヨハネが見たキリストの幻とまではいかなくとも、似たようなような幻視体験が与えられるよう願ったけれどまだ与えられていないと失望している人もいるかもしれない。しかし、そのようなキリストの体験の有無で疑ったり失望する必要は全くない。むしろ私達は、生けるキリストとの人格的交わりの喜びが、自分の心の中に常にあるかどうかに注意を払うべきである。

Ⅰペテロ1:8-13

8 あなたがたは、イエス・キリストを見たことはないが、彼を愛している。現在、見てはいないけれども、信じて、言葉につくせない、輝きにみちた喜びにあふれている。 

9 それは、信仰の結果なるたましいの救を得ているからである。 

10 この救については、あなたがたに対する恵みのことを預言した預言者たちも、たずね求め、かつ、つぶさに調べた。 

11 彼らは、自分たちのうちにいますキリストの霊が、キリストの苦難とそれに続く栄光とを、あらかじめあかしした時、それは、いつの時、どんな場合をさしたのかを、調べたのである。 

12 そして、それらについて調べたのは、自分たちのためではなくて、あなたがたのための奉仕であることを示された。それらの事は、天からつかわされた聖霊に感じて福音をあなたがたに宣べ伝えた人々によって、今や、あなたがたに告げ知らされたのであるが、これは、御使たちも、うかがい見たいと願っている事である。 

13 それだから、心の腰に帯を締め、身を慎み、イエス・キリストの現れる時に与えられる恵みを、いささかも疑わずに待ち望んでいなさい。