an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

教えてはならない教え

使徒15:5

ところが、パリサイ派から信仰にはいってきた人たちが立って、「異邦人にも割礼を施し、またモーセの律法を守らせるべきである」と主張した。  

 相変わらず「パリサイ派から信仰にはいってきた人たち」の末裔が、ヘブライ語の新約聖書とやらを片手に「異邦人にもモーセの律法を守らせるべきである」と主張し、キリストによる救いを求めている人々の魂を混乱させ、自分たちの奴隷にしている。この偽りの主張を聖書によって検証することもなく、表層的な聖書理解で塗り固め、宣伝している者が日本人のなかにもいるから気をつけなければならない。

 彼らは「キリストが律法を成就した」という意味を理解していないから、安息日や食べ物に関する戒めを守るべきだと主張し、さらには「今現在、神を信じる者が生贄を捧げないのは、ただ単にエルサレムの神殿が存在していないからだけだ」と言って、キリストの尊き十字架の犠牲をないがしろにする教えを広めている。使徒パウロが言うように彼らの口を封ずることはできないなら、せめて耳を貸さないようにしなければならない。あなたの魂の救いのためである。

テトス1:10,11

10 実は、法に服さない者、空論に走る者、人の心を惑わす者が多くおり、とくに、割礼のある者の中に多い。 

11 彼らの口を封ずべきである。彼らは恥ずべき利のために、教えてはならないことを教えて、数々の家庭を破壊してしまっている。 

 もしこの記事を読んでいる方で、上記のような惑わしを受けていて、混乱している人がいたならば、冒頭に引用した聖句の続きを読んで頂きたい。

使徒15:6-11

6 そこで、使徒たちや長老たちが、この問題について審議するために集まった。 

7 激しい争論があった後、ペテロが立って言った、「兄弟たちよ、ご承知のとおり、異邦人がわたしの口から福音の言葉を聞いて信じるようにと、神は初めのころに、諸君の中からわたしをお選びになったのである。 

8 そして、人の心をご存じである神は、聖霊をわれわれに賜わったと同様に彼らにも賜わって、彼らに対してあかしをなし、 

9 また、その信仰によって彼らの心をきよめ、われわれと彼らとの間に、なんの分けへだてもなさらなかった。 

10 しかるに、諸君はなぜ、今われわれの先祖もわれわれ自身も、負いきれなかったくびきをあの弟子たちの首にかけて、神を試みるのか。 

11 確かに、主イエスのめぐみによって、われわれは救われるのだと信じるが、彼らとても同様である」。 

 この場面で激しい議論に参加していた使徒や長老は、生粋のユダヤ人であった。モーセの律法を幼い時から学び、それに生きるように教えられてきた人々である。使徒パウロに至っては、イエスの恵みを知る前は、パリサイ人として聖書に精通し、ガマリエルのひざもとで先祖伝来の律法について、きびしい薫陶を受け、同国人の中で同年輩の多くの者にまさってユダヤ教に精進し、先祖たちの言伝えに対して、だれよりもはるかに熱心であった(使徒22:3;ガラテヤ1:14)。 バルナバと呼ばれていたヨセフも神の宮に仕えるために選ばれていたレビ族に属していた(使徒4:36)。ペテロを始め十二使徒は、旧約聖書の長い聖句を暗記で引用できるほど聖書を知っていた。そんな彼らが議論の末、皆反論できなくて黙ってしまう程明確な問いかけで一致した。

10 しかるに、諸君はなぜ、今われわれの先祖もわれわれ自身も、負いきれなかったくびきをあの弟子たちの首にかけて、神を試みるのか。 

 自分たちだけでなく、主なる神から律法を受け取り、それを民に伝えたモーセ自身さえも負いきれなかった重いくびきを異邦人の首にかけるという行為は、偽善であるだけでなく、主なる神を試みる冒涜である、とペテロは主張したのである。しかるに上記の偽りの教えを主張する者は、一体何者なのだろうか。ペテロやパウロ、バルナバなど当時の使徒たちよりも優れた教師なのだろうか。彼らより神の真理を理解していると言っているようなものである。

 また、へブル人への手紙、特に七章から十章までを読んで頂きたい。この手紙の筆者は誰だかは知られていないが、旧約聖書に精通しているところから確実に言えることは、筆者がユダヤ人だったことである。また手紙の対象も、イエス・キリストを信じて救われていたユダヤ人信徒であった。そしてこの手紙が書かれた時は、まだエルサレムの神の宮で日々供え物が捧げられていた。

へブル10:1-3;11

1 いったい、律法はきたるべき良いことの影をやどすにすぎず、そのものの真のかたちをそなえているものではないから、年ごとに引きつづきささげられる同じようないけにえによっても、みまえに近づいて来る者たちを、全うすることはできないのである。 

2 もしできたとすれば、儀式にたずさわる者たちは、一度きよめられた以上、もはや罪の自覚がなくなるのであるから、ささげ物をすることがやんだはずではあるまいか。 

3 しかし実際は、年ごとに、いけにえによって罪の思い出がよみがえって来るのである。 

11 こうして、すべての祭司は立って日ごとに儀式を行い、たびたび同じようないけにえをささげるが、それらは決して罪を除き去ることはできない。 

 西暦七十年にローマ軍によってエルサレムの神の宮が破壊されるまで、引き続き犠牲が捧げられ続けてはいたが、その不完全性や無力性を明確に啓示している。また七章では、レビ系の祭司職からメルキセデクの位の祭司職に変わったことによって、律法は変わらなければならない(13節)、前の戒めは弱く無益なため廃止され、その代りにさらに優れた希望が導き入れられた(18,19節)とある。またイエスは天上の大祭司であって、もし地上にいたらレビ人たちが律法に従って捧げているので、祭司とはなれないでしょう、と言って、キリストの祭司職と律法によるレビびとの祭司職が次元が異なることを啓示している。

 使徒パウロが自分の回心の証しを数行で書いたとき、「ユダヤ教を信じていたころのわたし」「ユダヤ教に精進し」(ガラテヤ1:13,14)と二度繰り返して「ユダヤ教」という表現を使っている。これは使徒パウロにとってイエス・キリストの啓示は「ユダヤ教」とは別のもので、「新しい道」だという意識が明確にあったことを啓示している。

 このように日本語訳の聖書を素直に、また全体的に読めば、上記のような稚拙な偽りの教えは問題なく反駁することができる。聖書は決して「恵みによる放縦」など教えておらず、むしろキリストの恵みにある愛と責任の行為を強く命じており、「モーセの律法」を超える「キリストの律法」を信じる者のうちに成就させていることを、聖霊によって確信することができるのである。