an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

香りと剣

Ⅱコリント2:14-17

14 しかるに、神は感謝すべきかな。神はいつもわたしたちをキリストの凱旋に伴い行き、わたしたちをとおしてキリストを知る知識のかおりを、至る所に放って下さるのである。 

15 わたしたちは、救われる者にとっても滅びる者にとっても、神に対するキリストのかおりである。 

16 後者にとっては、死から死に至らせるかおりであり、前者にとっては、いのちからいのちに至らせるかおりである。いったい、このような任務に、だれが耐え得ようか。 

17 しかし、わたしたちは、多くの人のように神の言を売物にせず、真心をこめて、神につかわされた者として神のみまえで、キリストにあって語るのである。  

 And who is sufficient for these things? (KJV)

「いったいこれらのことがらに、十分〔ふさわしい〕者が誰かいるであろうか。」(岩波翻訳委員会訳1995)

 使徒パウロは、なぜ戸惑うほどの責任を感じていたのだろうか。それは、一人の人間の永遠の命を決めてしまうキリストの福音を委ねられている、という自覚の故である。しかも、パウロ自身ではなく、神がパウロを通してキリストを知る知識の香りを至る所に放っているという真理をよく理解していたからである。パウロ自身が「命から命の至らせる香り」と「死から死に至らせる香り」をシチュエーションに応じてどちらかを選んで放っていたわけではなく、「キリストを知る知識のかおり」が明確に「救われる者」と「滅びに至る者」との間に「剣」を投げ込んでしまうからである。

マタイ10:32-34

32 だから人の前でわたしを受けいれる者を、わたしもまた、天にいますわたしの父の前で受けいれるであろう。 

33 しかし、人の前でわたしを拒む者を、わたしも天にいますわたしの父の前で拒むであろう。 

34 地上に平和をもたらすために、わたしがきたと思うな。平和ではなく、つるぎを投げ込むためにきたのである。

 勿論、この聖句は無知な選民意識や攻撃性を擁護も肯定もしていない。使徒パウロがそのような意識をもっていたら、「いったいこれらのことがらに、十分〔ふさわしい〕者が誰かいるであろうか」と戸惑いを告白することはなかっただろう。自分自身も滅びに至る道を歩んでいたにもかかわらず、イエス・キリストの恵みによって救いを受けた罪びとである、という自覚があるからこそ、この「剣」に戸惑うのである。

 「しかし」とパウロは続けている。

 しかし、わたしたちは、多くの人のように神の言を売物にせず、真心をこめて、神につかわされた者として神のみまえで、キリストにあって語るのである。  

 この「二つの香りの間に置かれた剣」を自分勝手に取り除き、死から死に至らせる香りを「消臭」しようとするものがパウロの時代にいた。彼らは神の福音を耳触りのいい話にして、自分たちの虚栄や私欲のために神の言を売り物にしていた。しかし、パウロは自分の戸惑いを神への畏敬の念のなかで治めていた。だからこそ「真心をこめて、神につかわされた者として神のみまえで、キリストにあって」福音を語っていたのである。

 現代では、数々の消臭剤が出回り、不快な臭いは取り除かれ、アロマテラピー効果を謳って様々な香りが売られている。そして現代人の嗅覚は、本来備えられているセンシビリティーを失いつつあるかもしれない。

 霊的次元ではどうであろうか。