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夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

キリストにおいて(3)ガマリエルの勧告と神のアイロニー

使徒5:34-40

34 ところが、国民全体に尊敬されていた律法学者ガマリエルというパリサイ人が、議会で立って、使徒たちをしばらくのあいだ外に出すように要求してから、 

35 一同にむかって言った、「イスラエルの諸君、あの人たちをどう扱うか、よく気をつけるがよい。 

36 先ごろ、チゥダが起って、自分を何か偉い者のように言いふらしたため、彼に従った男の数が、四百人ほどもあったが、結局、彼は殺されてしまい、従った者もみな四散して、全く跡方もなくなっている。 

37 そののち、人口調査の時に、ガリラヤ人ユダが民衆を率いて反乱を起したが、この人も滅び、従った者もみな散らされてしまった。 

38 そこで、この際、諸君に申し上げる。あの人たちから手を引いて、そのなすままにしておきなさい。その企てや、しわざが、人間から出たものなら、自滅するだろう。 

39 しかし、もし神から出たものなら、あの人たちを滅ぼすことはできまい。まかり違えば、諸君は神を敵にまわすことになるかも知れない」。そこで彼らはその勧告にしたがい、 

40 使徒たちを呼び入れて、むち打ったのち、今後イエスの名によって語ることは相成らぬと言いわたして、ゆるしてやった。 

  このエピソードは、先日考察したガリラヤ人がローマ総督ピラトに惨殺されたニュースを聞いたイエス・キリストの対応と比較すると、大変意味深い。

 律法学者ガマリエルは、当時厳格なパリサイ派の中では、リベラルなグループに属するラビであったと言われている。国民全体の尊敬を受けていた。使徒パウロは幼い時からこの教師の下で律法を学んだ(使徒22:3)。

 ガマリエルは使徒たちによる宣教活動に対して、過去に起こった事例を基に同僚たちに勧告したが、その意見は良識あるように聞こえる。実際、彼のこの一声で使徒たちは解放されたのである。

 しかしよくこの勧告を読んで見ると、実は非常にプラグマティックで、さらに言えば偽善的である。まず第一に、このガマリエルは律法や預言に誰よりも精通し、しかもイエス・キリストが地上で宣教し、行った数々のしるしを知っていた。ほぼ確実にユダヤ指導者の議会サンヘドリンの一員として、イエス・キリストに会い、彼を裁く協議に参加していたはずである(マタイ26:59;27:1)。しかし、彼は同じイスラエルの教師であり、議員であったニコデモのように、律法に従ってイエス・キリストを擁護することもなく(ヨハネ7:50、51)、アリマタヤのヨセフのように議会の計画や行動に不賛同の意をもち、キリストの死体に敬意を示すことでその意を表明するようなこともなかった(ルカ23:50-52)。

 むしろ、ガマリエルの言葉から判断できることは、彼がイエス・キリストのことを自ら何か偉い者であるかのように言いふらしていたチュダやガリラヤ人ユダと同様に、反乱者の一人として十字架の死刑で滅びてしまった、と判断していたことである。彼は、ペンテコステの日の奇蹟も、御霊に満たされた使徒たちによるキリストの復活の宣教も、美しの門の足萎えの人の奇蹟も知っていた。それにもかかわらず、この律法学者は悔い改めてイエス・キリストをメシヤとして信じることなく、「あの人たちから手を引いて、そのなすままにしておきなさい。その企てや、しわざが、人間から出たものなら、自滅するだろう。しかし、もし神から出たものなら、あの人たちを滅ぼすことはできまい。まかり違えば、諸君は神を敵にまわすことになるかも知れない」という非常にプラグマティックな意見で、神の前の個人としての責任から巧妙に逃避したのである。

 度々、このガマリエルの勧告は誤って引用されているのを見聞きする。しかし、このプラグマティックな意見が、聖霊から来る真理ではないことは、様々な異端が勢力を増し肥大化し、「キリスト教の一大勢力」とまでみなされているのを見れば明らかである。

ルカ17:20,21

20 神の国はいつ来るのかと、パリサイ人が尋ねたので、イエスは答えて言われた、「神の国は、見られるかたちで来るものではない。 

 21 また『見よ、ここにある』『あそこにある』などとも言えない。神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」。

 神の国は、ペンテコステの日のエルサレムのように顕現することもあれば、大衆に石で撃ち殺されつつあった一人の忠実な証し人の上に顕れることもある。サマリヤの町々のリバイバルにも、荒野の帰路を行く一人のエチオピア人の宦官の心のなかにも顕れるのである。コリント教会の会衆の悔い改めのなかにも、流刑の地パトモス島のたった一人の老使徒の上にも顕れるのである。むしろ社会の注目を全く浴びない、この世の価値観に捨てられ蔑まされた所にこそ、神の力が静かに啓示されている。人間的判断基準を超えて、神の風は思いのままに吹き、神の御言葉はどんな要塞をも打ち破るほどに力をもっているのである。もしどこかの誰かが、一人で聖書を読み、イエス・キリストを信じ、彼に救いを求めるならば、神の国はその人の心の中で現実となる。如何なる人間の企てや地上的組織と全く無関係に、その人自身が神のわざとなるのである。

 神は、このイスラエルの律法学者の御膝元、おそらく最も優秀な弟子であったサウロを回心に導き、異邦人のための使徒として大いに用い、さらに数々の投獄を通して新約聖書の書簡を書き残す役割と時間を与えたのであった。それらの書簡によって、今に至るまでの約二千年間、多くの人が救われ、また多くの信徒が殉教し、多くのムーヴメントが生まれ、迫害や背教によって消しつぶされてきたにもかかわらず、二千年後の今も尚、ガマリエルが言った「企てやしわざ」が滅ぼされることなく、個々の心の中で脈々と続いているのは、まさしく「神のアイロニー」と言えるのではないだろうか。