an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

キリストにおいて(2)十字架による思考の革新

Ⅰコリント2:16

「だれが主の思いを知って、彼を教えることができようか」。しかし、わたしたちはキリストの思いを持っている。

ローマ12:1,2

1 兄弟たちよ。そういうわけで、神のあわれみによってあなたがたに勧める。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である。 

2 あなたがたは、この世と妥協してはならない。むしろ、心を新たにすることによって、造りかえられ、何が神の御旨であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかを、わきまえ知るべきである。 

  キリストの死と復活に対する信仰によって、新しく生まれ変わった人は、キリストにあってキリストの思い(原語 nuonは、日本語の「思い」より広い意味を持ち、「心」とか「精神」を表している言葉である)を持っている。

 しかしこのキリストの思いは、細胞組織が絶えることないダイナミズムによって革新されているように、日々新しく造りかえられる必要がある。否、むしろ信じる者のうちに宿る聖霊が、その人の思いをキリストの思いに造りかえる様、絶えず働きかけているのだ。もし信者が、日々挑みかけてくる「この世」の価値観(神の主権を認めない、もしくは認めているふりしているが実際は認めていない価値観)と妥協することを拒否するならば、聖霊は聖書の御言葉とキリストとの霊的な交わりを通して、その人の意識、思考、意志、感情をキリストのものに造りかえ続けてくださる。

 キリストの思いに関して、興味深いエピソードがルカによる福音書にある。

ルカ13:1-5

1 ちょうどその時、ある人々がきて、ピラトがガリラヤ人たちの血を流し、それを彼らの犠牲の血に混ぜたことを、イエスに知らせた。 

2 そこでイエスは答えて言われた、「それらのガリラヤ人が、そのような災難にあったからといって、他のすべてのガリラヤ人以上に罪が深かったと思うのか。 

3 あなたがたに言うが、そうではない。あなたがたも悔い改めなければ、みな同じように滅びるであろう。 

4 また、シロアムの塔が倒れたためにおし殺されたあの十八人は、エルサレムの他の全住民以上に罪の負債があったと思うか。 

5 あなたがたに言うが、そうではない。あなたがたも悔い改めなければ、みな同じように滅びるであろう」。 

  当時のエルサレムで起きたホット・ニュースをイエス・キリストに伝えるものがいた。ローマ総督のピラトが、おそらく熱心党(ローマ帝国の支配を拒否し、度々暴動やテロ行為を行っていたユダヤ人グループ。十二弟子のひとり、シモンもイエスに従う前はその党員であった)に属していたガリラヤ人たちを神の宮で処刑させたことを伝えた。イエスの答えから推測するに、このホット・ニュースを告げた人々は、イエスの弟子達がガリラヤ出身であることということを意識して、その惨事がそれらのガリラヤ人の罪の結果であるという前提を基にイエスに伝えたのではないだろうか(当時、このような悲劇的な惨事に会うことは何かしらの罪の直接的な結果であるという考え方があった。ヨハネ9:2参照)。その隠れた思いをイエスは読み取り、「それらのガリラヤ人が、そのような災難にあったからといって、他のすべてのガリラヤ人以上に罪が深かったと思うのか。あなたがたに言うが、そうではない。あなたがたも悔い改めなければ、みな同じように滅びるであろう」と、彼らを戒めた。

 ここでイエスは、ローマ帝国による暴圧に関して、ユダヤ人たちの愛国心をくすぐるような政治的見解を語ることはなかった。またニュースを告げた人々の誤解を正すような神学的説明もしなかった。ただ単に、悔い改めの必要性を訓戒したのである。 またエルサレムのシロアムの塔が崩壊し、十八人もの犠牲者が出た事件に関して、それが人為的なものか否かの原因の説明はせずに(主イエスは勿論すべてをご存じであった)、ただ悔い改めなければ同じような滅亡的な惨事が全ての人の上に起こり得ることを戒めたのである。

 このキリストの回答は、「この世」の倫理観からすると、あまりにも単純かつ攻撃的で、受け入れ難い程、不快な言葉であろう。しかし、イエスは魂の救いを願うゆえに、彼らに何よりもまず悔い改めを求めた。

 キリストの霊を受けた使徒パウロは、コリント教会の信徒に向けて以下のように語っている。

Ⅰコリント2:1-13

1 兄弟たちよ。わたしもまた、あなたがたの所に行ったとき、神のあかしを宣べ伝えるのに、すぐれた言葉や知恵を用いなかった。 

2 なぜなら、わたしはイエス・キリスト、しかも十字架につけられたキリスト以外のことは、あなたがたの間では何も知るまいと、決心したからである。 

3 わたしがあなたがたの所に行った時には、弱くかつ恐れ、ひどく不安であった。 

4 そして、わたしの言葉もわたしの宣教も、巧みな知恵の言葉によらないで、霊と力との証明によったのである。 

5 それは、あなたがたの信仰が人の知恵によらないで、神の力によるものとなるためであった。 

6 しかしわたしたちは、円熟している者の間では、知恵を語る。この知恵は、この世の者の知恵ではなく、この世の滅び行く支配者たちの知恵でもない。 

7 むしろ、わたしたちが語るのは、隠された奥義としての神の知恵である。それは神が、わたしたちの受ける栄光のために、世の始まらぬ先から、あらかじめ定めておかれたものである。 

8 この世の支配者たちのうちで、この知恵を知っていた者は、ひとりもいなかった。もし知っていたなら、栄光の主を十字架につけはしなかったであろう。 

9 しかし、聖書に書いてあるとおり、「目がまだ見ず、耳がまだ聞かず、人の心に思い浮びもしなかったことを、神は、ご自分を愛する者たちのために備えられた」のである。 

10 そして、それを神は、御霊によってわたしたちに啓示して下さったのである。御霊はすべてのものをきわめ、神の深みまでもきわめるのだからである。 

11 いったい、人間の思いは、その内にある人間の霊以外に、だれが知っていようか。それと同じように神の思いも、神の御霊以外には、知るものはない。 

12 ところが、わたしたちが受けたのは、この世の霊ではなく、神からの霊である。それによって、神から賜わった恵みを悟るためである。 

13 この賜物について語るにも、わたしたちは人間の知恵が教える言葉を用いないで、御霊の教える言葉を用い、霊によって霊のことを解釈するのである。 

 人間的にも知性と知識に満ちたパウロは、コリントの人々に福音を伝えるのに、敢えて「十字架につけられたキリスト」以外語るまいと決心していた。それは、自分の霊性を誇示するという卑しい目的のためでなく、「コリント人たちの信仰が人の知恵によらないで、神の力によるものとなるため」という、隣人の信仰に対する愛の故であった。人々の関心を引くために「巧みな知恵の言葉」や「人間の知恵が教える言葉」、「この世の霊が教える知恵」によって宣教することも、やろうと思えば問題なくできただろう。しかしその選択肢は、キリストの十字架に顕れた神の力をむしろ抑え付けてしまうことをパウロは知っていた。だからこそ、自らの知性や知識、能力さえも十字架につけ、葬り去る生き方を選んだのである。

ガラテヤ6:14

しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたのです。

 「世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられた」。キリストの十字架の働きにおいて、贖罪、つまり罪の赦しという恵みは絶大であるが、十字架の力はそれだけに留まらない。「十字架による自己の死」さらに「十字架によるこの世の死」(十字架の死は、神の呪いであったことも忘れてはならない)は、私達の価値観の全てを根底から革新する圧倒的な力を持っている。