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夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

赦しと和解について(1)

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『赦しー新しい人間関係を生み出す』デビッド・アウグスバーガー著

発行・東京ミッション研究所 発売・いのちのことば社

66ページから引用

 赦しとは、悔い改めが真実であり、正しい関係が回復し、成就することを、互いに認め合うことにほかならない。赦しは痛みのできごとを否定するのではない。会話を避けることではない。何もなかったようなふりをすることでもない。現実に存在した悪を見逃す寛大さではない。困難な道をたどるのを避ける弱さではない。また相手のひとよりも高い所にいることを誇示して、不問に付することでもない。悔い改めの会話を進めるという、困難で痛みの多い、リスクに満ちた道を一緒に歩くことである。

 赦しは一つの行為ではなくむしろ過程である。単独の折衝ではなく一連の段階である。一回限りの全面解決といった単純な赦しの理解には注意しなければならない。即席の解決は赦しであるよりはむしろ問題からの逃避、問題の否定にすぎないことが多い。赦しには時間がかかる。自分の様々な感情を点検し、痛みと怒りに注意を払い、相手の見方を理解しようとするための時間が必要なのだ。そのようにして痛みが解決し、未来が再び開くことになる。

 イエス・キリストの十字架の犠牲による罪の赦しに対する表層的・部分的理解は、人間関係、特に教会内における赦しと和解に関する表層的・部分的態度を生み出す。安易で強引な解決策、見て見ぬふり、次々に企画される「ビジョン」による「ごまかし」が、心の傷をよリ深くし、絡み合った感情を解きほぐすことなく奥底に沈めてしまう。消化不良を起こしているくせに、健康なふりをしている。右手で握手しながら、左手にはベンヤミン人の士師、左利きのエフデのように剣を隠し持っている。

 私達は、赦しについての聖句を暗記し、赦しのノウハウを教えてくれる本をたくさん読んだとしても、現実にできることはただ主の十字架の前にひざまずいて、私たちの無力さを告白することだけではないだろうか。そして「わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい」(マタイ11:29)と語りかけてくださっている主イエスに学び、彼のくびきを負って彼と共に歩む。それが本当の献身であり、聖霊によるリバイバルであり、真の霊的歩みである。

 

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