「神は愛の神だから、人間が永遠の滅びに至るのを望んでおらず、それゆえ裁きも地獄も全ての人を救いに至らせるプロセスに過ぎない」と主張する万人救済説がある。そして、聖書はその前提によって読むべきであり、その前提に矛盾する数々の聖句は、「近視眼的な解釈」で読んではならず、もしそのような読み方をするならば、人間が父なる愛の神を、冷酷な裁判官であり横暴な支配者に代えてしまう、と主張する。しかも、それは人間の犯す最大の罪だと断罪されている。
参照『聖書のグランドデザイン』
http://blog.livedoor.jp/gregoryofnyssa/archives/51806245.html
(注)引用したブログサイトには「終了しました」とあり、記事は削除されている。
http://blog.livedoor.jp/gregoryofnyssa/archives/cat_10045968.html
この万人救済説とその説を基にした聖書へのアプローチは正当性を持っているだろうか。
まず第一に基本となる聖書に対するアプローチについて考えてみよう。上記の説は、「神は愛である」(Iヨハネ4:16)という聖書の啓示の重要な一面を前提にして、聖書を演繹法的アプローチで解釈する様に勧めている。しかし、聖書には「神は聖である」また「正義に従って裁く方」であることも書かれている。
Iペテロ1:16,17
16 聖書に、「わたしが聖なる者であるから、あなたがたも聖なる者になるべきである」と書いてあるからである。
17 あなたがたは、人をそれぞれのしわざに応じて、公平にさばくかたを、父と呼んでいるからには、地上に宿っている間を、おそれの心をもって過ごすべきである。
黙示19:1,2
1 この後、わたしは天の大群衆が大声で唱えるような声を聞いた、「ハレルヤ、救と栄光と力とは、われらの神のものであり、
2 そのさばきは、真実で正しい。神は、姦淫で地を汚した大淫婦をさばき、神の僕たちの血の報復を彼女になさったからである」。
当然、神の属性のなかで「愛」と「義」を比較して、一方だけ重要視し、他方を軽視する権利は私達に与えられていない以上、御自身の中に矛盾を持たない完全な神の全ての属性を基に、統合的に聖書を検証するアプローチが、神の啓示に対するふさわしい方法である。それゆえ、一見矛盾しているように思える聖句も全て含めて、聖書全体を帰納法的アプローチで読解すべきである。むしろ、ある一部の啓示だけを強調して、その啓示にうまく統合できない他の啓示を「矛盾」もしくは「聖書の誤り」として扱ってしまう方が、真の神のイメージを歪めて、人間のイメージで神を創ってしまう危険が潜んでいる。
また、「愛」という概念についても、聖書が啓示している愛とはどのようなものであるか、様々な角度から帰納的に検証し、より聖書的な啓示を得る必要がある(*)。極端な例で言えば、愛のない義が残酷であるように、義のない愛は不純であり得るからだ。神の様々な属性は、ひとつのペルソナをなしており、便宜上個別に考察したりはするが、本来は分離できないものである。
(*)「愛の質」参照
http://eastwindow18.hatenadiary.com/entry/2013/09/20/223126
次に神の意志について考えてみよう。聖書には、神の全ての人間に対する意志が明確に啓示されている。
Iテモテ2:4
神は、すべての人が救われて、真理を悟るに至ることを望んでおられる。
Ⅱペテロ3:9
ある人々がおそいと思っているように、主は約束の実行をおそくしておられるのではない。ただ、ひとりも滅びることがなく、すべての者が悔改めに至ることを望み、あなたがたに対してながく忍耐しておられるのである。
これが神の意志であり、願いである。しかし、人間の意志という、救いのメダルのもう一方の面も考慮に入れなければならない。なぜなら、神は全能の神であるが、人間の意志を無視して、自らの意思を強要しないからである。神の救いの計画の全体像は、神が永遠の時から決定し、遂行し、誰もそれを変更することはできないが、個人の救いに関しては、人間の選択意志を尊重するのである。例えて言えば、神は「キリスト」という名の「救い」行きの電車を用意し、切符まで無償で備えてくれるが、その電車に乗るかどうか、また終点まで乗り続けるかどうかは、個人の選択にかかっているのである。
実際、黙示録には、神があらゆる手段、万人救済説の説く「プロセスとしての裁き」まで用いて、頑な人々を悔い改めに導こうとしたにもかかわらず、神の前で悔い改めない人々がいることが啓示されている。
黙示16:8-11
8 第四の者が、その鉢を太陽に傾けた。すると、太陽は火で人々を焼くことを許された。
9 人々は、激しい炎熱で焼かれたが、これらの災害を支配する神の御名を汚し、悔い改めて神に栄光を帰することをしなかった。
10 第五の者が、その鉢を獣の座に傾けた。すると、獣の国は暗くなり、人々は苦痛のあまり舌をかみ、
11 その苦痛とでき物とのゆえに、天の神をのろった。そして、自分の行いを悔い改めなかった。
また、「すべての人が救われて、真理を悟るに至ることを望んでいる」神の意志に対して、全ての人間が肯定的に答えないことも聖書は啓示している。
Ⅱテサロニケ2:9-12
9 不法の者が来るのは、サタンの働きによるのであって、あらゆる偽りの力と、しるしと、不思議と、
10 また、あらゆる不義の惑わしとを、滅ぶべき者どもに対して行うためである。彼らが滅びるのは、自分らの救となるべき真理に対する愛を受けいれなかった報いである。
11 そこで神は、彼らが偽りを信じるように、迷わす力を送り、
12 こうして、真理を信じないで不義を喜んでいたすべての人を、さばくのである。
もし悔い改めもせず、真理を知ろうともしなかった人々の意志に反して、神がその権威と全能によって「無理矢理」救ってしまい、永遠にその状態に「閉じ込めてしまう」としたら、その人々にとってはそれこそ「地獄に突き落とされる」ようなものではないだろうか。勿論、そのような独断は、神の愛の倫理性に反する。神は強要などしない。人間が各自の永遠の状態を選択するのである。
最後に「裁きも地獄も全ての人を救いに至らせるプロセスに過ぎない」という説について検証する。以下に引用する聖句には、神による裁きが救いへのプロセスの一端としてではなく、決定的で永遠性を帯びた、不可逆性の裁きであることが明らかに啓示されている。
マタイ13:40-43
40 だから、毒麦が集められて火で焼かれるように、世の終りにもそのとおりになるであろう。
41 人の子はその使たちをつかわし、つまずきとなるものと不法を行う者とを、ことごとく御国からとり集めて、
42 炉の火に投げ入れさせるであろう。そこでは泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう。
43 そのとき、義人たちは彼らの父の御国で、太陽のように輝きわたるであろう。耳のある者は聞くがよい。
マタイ25:41-46
41 それから、左にいる人々にも言うであろう、『のろわれた者どもよ、わたしを離れて、悪魔とその使たちとのために用意されている永遠の火にはいってしまえ。
42 あなたがたは、わたしが空腹のときに食べさせず、かわいていたときに飲ませず、
43 旅人であったときに宿を貸さず、裸であったときに着せず、また病気のときや、獄にいたときに、わたしを尋ねてくれなかったからである』。
44 そのとき、彼らもまた答えて言うであろう、『主よ、いつ、あなたが空腹であり、かわいておられ、旅人であり、裸であり、病気であり、獄におられたのを見て、わたしたちはお世話をしませんでしたか』。
45 そのとき、彼は答えて言うであろう、『あなたがたによく言っておく。これらの最も小さい者のひとりにしなかったのは、すなわち、わたしにしなかったのである』。
46 そして彼らは永遠の刑罰を受け、正しい者は永遠の生命に入るであろう」。
ユダ10-13
10 しかし、この人々は自分が知りもしないことをそしり、また、分別のない動物のように、ただ本能的な知識にあやまられて、自らの滅亡を招いている。
11 彼らはわざわいである。彼らはカインの道を行き、利のためにバラムの惑わしに迷い入り、コラのような反逆をして滅んでしまうのである。
12 彼らは、あなたがたの愛餐に加わるが、それを汚し、無遠慮に宴会に同席して、自分の腹を肥やしている。彼らは、いわば、風に吹きまわされる水なき雲、実らない枯れ果てて、抜き捨てられた秋の木、
13 自分の恥をあわにして出す海の荒波、さまよう星である。彼らには、まっくらなやみが永久に用意されている。
黙示録20:10-15
10 そして、彼らを惑わした悪魔は、火と硫黄との池に投げ込まれた。そこには、獣もにせ預言者もいて、彼らは世々限りなく日夜、苦しめられるのである。
11 また見ていると、大きな白い御座があり、そこにいますかたがあった。天も地も御顔の前から逃げ去って、あとかたもなくなった。
12 また、死んでいた者が、大いなる者も小さき者も共に、御座の前に立っているのが見えた。かずかずの書物が開かれたが、もう一つの書物が開かれた。これはいのちの書であった。死人はそのしわざに応じ、この書物に書かれていることにしたがって、さばかれた。
13 海はその中にいる死人を出し、死も黄泉もその中にいる死人を出し、そして、おのおのそのしわざに応じて、さばきを受けた。
14 それから、死も黄泉も火の池に投げ込まれた。この火の池が第二の死である。
15 このいのちの書に名がしるされていない者はみな、火の池に投げ込まれた。
勿論、私はキリストの恵みによって魂の救いを受けた一人の罪びととして、このブログにおいても、永遠の救いの福音を宣べ伝えてきたし、主の再臨の日までそれを続けていきたいと心から願っている。それはまた、私自身、永遠の裁きを正義をもって公平に行う方の御前に立つ責務をもっている一人だからである。
Ⅱテモテ4:1-5
1 神のみまえと、生きている者と死んだ者とをさばくべきキリスト・イエスのみまえで、キリストの出現とその御国とを思い、おごそかに命じる。
2 御言を宣べ伝えなさい。時が良くても悪くても、それを励み、あくまでも寛容な心でよく教えて、責め、戒め、勧めなさい。
3 人々が健全な教に耐えられなくなり、耳ざわりのよい話をしてもらおうとして、自分勝手な好みにまかせて教師たちを寄せ集め、
4 そして、真理からは耳をそむけて、作り話の方にそれていく時が来るであろう。
5 しかし、あなたは、何事にも慎み、苦難を忍び、伝道者のわざをなし、自分の務を全うしなさい。
(2)に続くhttp://eastwindow18.hatenadiary.com/entry/2013/10/23/191707
聖書引用
口語訳聖書 (c)日本聖書協会 Japan Bible Society, Tokyo 1954,1955