an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

マタイ12:43-45の解釈について

マタイ12:43-45

43 汚れた霊が人から出ると、休み場を求めて水の無い所を歩きまわるが、見つからない。 

44 そこで、出てきた元の家に帰ろうと言って帰って見ると、その家はあいていて、そうじがしてある上、飾りつけがしてあった。 

45 そこでまた出て行って、自分以上に悪い他の七つの霊を一緒に引き連れてきて中にはいり、そこに住み込む。そうすると、その人ののちの状態は初めよりももっと悪くなるのである。よこしまな今の時代も、このようになるであろう」。 

  解釈が難しい聖句と向き合う基本は、聖霊に導きを求めると同時に、やはり細かい所に囚われ過ぎないように、まずその聖句の文脈を理解することが不可欠である。

 冒頭の聖句の文脈を知るために、何行か遡って、イエスが誰に対して、なぜこのようなことを語ったのか見てみよう。

マタイ12:38,39

38 そのとき、律法学者、パリサイ人のうちのある人々がイエスにむかって言った、「先生、わたしたちはあなたから、しるしを見せていただきとうございます」。 

39 すると、彼らに答えて言われた、「邪悪で不義な時代は、しるしを求める。しかし、預言者ヨナのしるしのほかには、なんのしるしも与えられないであろう。 

40 すなわち、ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、地の中にいるであろう。 

41 ニネベの人々が、今の時代の人々と共にさばきの場に立って、彼らを罪に定めるであろう。なぜなら、ニネベの人々はヨナの宣教によって悔い改めたからである。しかし見よ、ヨナにまさる者がここにいる。 

42 南の女王が、今の時代の人々と共にさばきの場に立って、彼らを罪に定めるであろう。なぜなら、彼女はソロモンの知恵を聞くために地の果から、はるばるきたからである。しかし見よ、ソロモンにまさる者がここにいる。 

  律法学者とパリサイ人達は、イエスに対してしるしを求めた。それに対してイエスは「邪悪で不義な時代は、しるしを求める」と答えている。なぜ「邪悪で不義である」として厳しく断罪しているのだろうか。なぜなら、これらの宗教家たちが、イエスによって行われた大いなる一つの奇蹟を見た、そのすぐ直後だったからである。しかも彼らは、イエスがその奇蹟を悪霊の力で行ったといって、聖霊の働きに対して冒涜していたばかりだったのである。

マタイ12:22-24

22 そのとき、人々が悪霊につかれた盲人のおしを連れてきたので、イエスは彼をいやして、物を言い、また目が見えるようにされた。 

23 すると群衆はみな驚いて言った、「この人が、あるいはダビデの子ではあるまいか」。 

24 しかし、パリサイ人たちは、これを聞いて言った、「この人が悪霊を追い出しているのは、まったく悪霊のかしらベルゼブルによるのだ。」

 つまり、彼らの目の前で悪霊に憑かれた盲人が解放され、口がきけるようになり、目が見えるようになったにも関わらず、その奇蹟を悪霊の働きと決めつけたのである。しかも、イエス自身が「わたしが神の霊によって悪霊を追い出しているのなら、神の国はすでにあなたがたのところにきたのである」(28節)と明白に啓示していたにも関わらず、 端的に言えば「もっとすごい奇蹟を起こしてみろ。そしたらお前のことを信じてやろう」とイエスの挑んだのである。勿論、言葉遣いは格段に丁寧であったが、彼らが意図するところは、まさしく「邪悪で不義」であった。その説教によってニネべ人々を悔い改めに導いたヨナよりも、南の女王がわざわざその知恵を聞くために遠征したほどの知恵を誇っていたソロモン王よりも、はるかにまさった者が、目の前で神しかできない奇蹟を起こしていたにも関わらず、彼らはそれを悪霊の働きと決めつけたのである。だから彼らは「聖霊に逆らうこと言う者」で、「誰であっても、この世であろうと次に来る世であろうと、赦されない」者だったのである(31、32節)。

 このような文脈を基に冒頭の箇所を考慮すると、「汚れた霊が人から出て行って」というところの「人」とは、ある個人というよりは、「邪悪で不義な今の時代の人々」全体、「邪悪なこの時代」を指し、神の子イエスが肉体を持って地上に来、聖霊の力によって汚れた霊を追い出したり、癒しを行ったり、「掃除してきちんと片づけていた」にもかかわらず、イエス自身を受け入れなかったゆえに、「家はあいていて」、家の主人が管理していない状態だったのである。当然、聖霊の臨在と働きを否定するわけだから、「入り込んでそこに住みつく」のはあらゆる悪い霊となる。そして、イエスの働きを実際に見、知りながらも、それを冒涜するわけだから、イエスの働きをまだ知り得なかった時代の人々、ニネべの人々や南の女王よりも、「さらに悪くなっており」、より重い罪に定められるのである。だからイエスは「邪悪なこの時代もまた、そういうことになるのです」という結論で締めくくったのである。

 終末論的観点を取り入れ、最後までキリストの恵みを拒否し続けるこの時代が、教会携挙を境に一気に悪化し、反キリストの出現を伴った悪の完全な顕現(「七つ」の悪い霊)である大患難の時代を突入することを示している、とも解釈できる(Ⅱテサロニケ2章参照)。

 勿論、唯一の解釈でも、十分な解釈でもないが、文脈を考慮し、聖書の他の部分の啓示とすり合わせながら検証するという解釈の基本は、理解していただけるのではないかと思う。