an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

愛の質

エレミヤ31:3-6(新改訳)

3 主は遠くから、私に現われた。「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに、誠実を尽くし続けた。

4 おとめイスラエルよ。わたしは再びあなたを建て直し、あなたは建て直される。再びあなたはタンバリンで身を飾り、喜び笑う者たちの踊りの輪に出て行こう。

5 再びあなたはサマリヤの山々にぶどう畑を作り、植える者たちは植えて、その実を食べることができる。

6 エフライムの山では見張る者たちが、『さあ、シオンに上って、私たちの神、主のもとに行こう。』と呼ばわる日が来るからだ。」

 預言者エレミヤは、イスラエルの民が背教と堕落によってバビロニア捕囚へと急速に転落していた時代に、神の召しを受け、御言葉を語った預言者である。その書には、正義と聖の神を深く知っているがゆえに、自分の民の霊的堕落を見て苦しみ悩む彼の心情を赤裸々に書き記されている。そして何よりも主なる神は、この預言者の敏感な心を用いて、ご自身の民の対する「深遠な愛」を啓示された。

 冒頭の第三節は、その神の愛を表している聖句として、よく引用される箇所であるが、その文脈を考慮すると、ここで表現されている愛は、決して「単純で、甘ったるい感情」などではなく、「強烈な痛みに刺し通された愛」であることがわかるのである。

 まずその愛は、「永遠」で「誠実を尽くし続ける」愛である。その場の空気の流れに合わせて向きを変える風見鶏のような愛ではなく、どんな状況でも変わることのない誠実な愛である。実際、神はこの「愛の告白」を、イスラエルの民がずっと欺き続け、最終的にバビロニアに奴隷として連れて行かれる前に語られたものある。神は民の頑なで、不誠実な性質を知りながらも、「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに、誠実を尽くし続けた」と語っているのである。

 そしてご自身の愛は変わらなく誠実であるからこそ、愛する対象の態度が変わり、離れていくときに、遠く離れた状態で留まるのを望まず、その愛の対象が御自身の所へ帰ってくることを切に求めるのである。

 エレミヤ31:9;18,19

9 彼らは泣き悲しんで帰ってくる。わたしは慰めながら彼らを導き帰る。彼らがつまずかないように、まっすぐな道により、水の流れのそばを通らせる。それは、わたしがイスラエルの父であり、エフライムはわたしの長子だからである。

18 わたしは確かに、エフライムがこう言って嘆くの聞いた、『あなたはわたしを懲しめられた、わたしはくびきに慣れない子牛のように懲しめをうけた。主よ、あなたはわたしの神、主でいらせられる、わたしを連れ帰って、もとにかえしてください。 

19 わたしはそむき去った後、悔い、教をうけた後、ももを打った。若い時のはずかしめが身にあるので、わたしは恥じ、うろたえた』。

  このイスラエルの悔い改めの言葉を聞き、神の心の最も深いところが震えるのである。

20 主は言われる、エフライムはわたしの愛する子、わたしの喜ぶ子であろうか。わたしは彼について語るごとに、なお彼を忘れることができない。それゆえ、わたしの心は彼をしたっている。わたしは必ず彼をあわれむ。

 この聖句においても、文語訳は優れている。 

20 ヱホバいひたまふエフライムは我愛するところの子悦ぶところの子ならずや我彼にむかひてかたるごとに彼を念はざるを得ず是をもて我膓かれの爲に痛む我必ず彼を恤むべし 

 「我彼に向かいて語るごとに」神は背き続ける民に対して厳しい裁きを宣告し、退けざる負えなかったが、その時でも民のことを捨て、忘れることはできず、苦しんでいる民を思い、神の心の一番深い所が痛むと言っているのである。新共同訳は同じ句を以下のように訳している。

 20 エフライムはわたしのかけがえのない息子/喜びを与えてくれる子ではないか。彼を退けるたびに/わたしは更に、彼を深く心に留める。彼のゆえに、胸は高鳴り/わたしは彼を憐れまずにはいられないと/主は言われる。

 「彼のゆえに、胸は高鳴り/わたしは彼を憐れまずにはいられない」まさに御子の十字架の死に示される神の愛の啓示を、エレミヤはこの時受けたのである。罪のゆえに人間を退けるしかない聖なる神は、その罪を取り除くために、最愛の御子を地上に遣わし、罪人の代わりに御子を十字架の上で「退ける」ことによって、罪を取り除いてくださった。十字架の上で神の心の最も深い所が痛んだのである。キリストの心臓に突き刺さった槍の傷跡は、その痛みのしるしである。

Ⅰペテロ2:22-24

22 キリストは罪を犯さず、その口には偽りがなかった。 

23 ののしられても、ののしりかえさず、苦しめられても、おびやかすことをせず、正しいさばきをするかたに、いっさいをゆだねておられた。 

24 さらに、わたしたちが罪に死に、義に生きるために、十字架にかかって、わたしたちの罪をご自分の身に負われた。その傷によって、あなたがたは、いやされたのである。 

25 あなたがたは、羊のようにさ迷っていたが、今は、たましいの牧者であり監督であるかたのもとに、たち帰ったのである。 

  私たちは十字架の傷によって癒され、そこに示されている永遠の愛によって愛されているのである。そして、その愛によって、裁かれる恐怖から解放され、神の許に立ち帰ることができるのだ。

 

 追記:「立心偏」に「血」で「恤む(あわれむ)」。日本語は本当に美しく、実に奥が深い。