an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

あるまじき忍耐(1)

Ⅱコリント11:1-4

1 わたしが少しばかり愚かなことを言うのを、どうか、忍んでほしい。もちろん忍んでくれるのだ。 

2 わたしは神の熱情をもって、あなたがたを熱愛している。あなたがたを、きよいおとめとして、ただひとりの男子キリストにささげるために、婚約させたのである。 

3 ただ恐れるのは、エバがへびの悪巧みで誘惑されたように、あなたがたの思いが汚されて、キリストに対する純情と貞操とを失いはしないかということである。 

4 というのは、もしある人がきて、わたしたちが宣べ伝えもしなかったような異なるイエスを宣べ伝え、あるいは、あなたがたが受けたことのない違った霊を受け、あるいは、受けいれたことのない違った福音を聞く場合に、あなたがたはよくもそれを忍んでいる。 

Ⅱコリント11:19,20 

19 あなたがたは賢い人たちなのだから、喜んで愚か者を忍んでくれるだろう。 

20 実際、あなたがたは奴隷にされても、食い倒されても、略奪されても、いばられても、顔をたたかれても、それを忍んでいる。 

 「あなたがたはよくもそれを忍んでいる」「あなたがたは、・・・それを忍んでいる」。使徒パウロは、律法主義に惑わされていたコリントの信徒たちの目を覚まさせるために、ここで強烈な皮肉を使っている。「あなたがたは、『救いを受けるにはモーセの律法を守らないといけない』と主張する、キリストの恵みの福音と異なる教えを広めているユダヤ人教師たちを何の警戒もなく受け入れ、彼らに愚か者のように扱われて利用されても黙ってそれに耐え忍んでいる。そんなに彼らに対して従順で忍耐深くいられるのなら、私の『キリストにある愚かさ』も受け入れることができるはずだ」と言う意味である。実際、コリントの信徒達は、これらの偽教師たちに対して、もっと明確な態度を示すべきだったのである。彼らの魂を救った恵みの福音を卑しめ、「キリストの命の代価によって獲得した自分たちの自由」を奪われていたのだから、はっきり「NO!」と言って拒絶すべきだったのである。

 日本人は一般的に、調和を愛し、事を荒立てることを好まず、全体の和のためには辛抱できる民族である。その点は、私のいる国とは根本的に異なり、一つの美徳だと思う。しかし、偽りの教えを説き、魂の自由を束縛する悪い働き人に対しては、断固とした態度を取れるような強さを求めるべきである。使徒パウロは、そのような者の霊的精神的圧力に黙って耐え忍ぶことを教えていない。むしろ、ガラテヤ人への手紙でも書かれているように、厳しく断罪している(1:6-9)。

 確かに勇気のいる選択である。使徒パウロは、コリントの信徒たちに宛てた手紙の最後にこう書いている。

Ⅱコリント13:7-9

7 わたしたちは、あなたがたがどんな悪をも行わないようにと、神に祈る。それは、自分たちがほんとうの者であることを見せるためではなく、たといわたしたちが見捨てられた者のようになっても、あなたがたに良い行いをしてもらいたいためである。 

8 わたしたちは、真理に逆らっては何をする力もなく、真理にしたがえば力がある。 

 9 わたしたちは、自分は弱くても、あなたがたが強ければ、それを喜ぶ。わたしたちが特に祈るのは、あなたがたが完全に良くなってくれることである。

  私たちが御言葉の真理に従うとき、聖霊が私たちの内なる力となってくださる。もちろん、サムソンのように聖霊の力を無意味な争いのために使うべきではない。しかし、貴方と私の断固とした態度が、束縛されている人たちへの大きな励ましとなり得ることは明確な事実である。

 Ⅱテモテ1:7

というのは、神がわたしたちに下さったのは、臆する霊ではなく、力と愛と慎みとの霊なのである。

あるまじき忍耐(2)へ続く

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