an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

未来への備えは後ろにもある

マタイ5:21-26

21 昔の人々に『殺すな。殺す者は裁判を受けねばならない』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。 

22 しかし、わたしはあなたがたに言う。兄弟に対して怒る者は、だれでも裁判を受けねばならない。兄弟にむかって愚か者と言う者は、議会に引きわたされるであろう。また、ばか者と言う者は、地獄の火に投げ込まれるであろう。 

23 だから、祭壇に供え物をささげようとする場合、兄弟が自分に対して何かうらみをいだいていることを、そこで思い出したなら、 

24 その供え物を祭壇の前に残しておき、まず行ってその兄弟と和解し、それから帰ってきて、供え物をささげることにしなさい。 

25 あなたを訴える者と一緒に道を行く時には、その途中で早く仲直りをしなさい。そうしないと、その訴える者はあなたを裁判官にわたし、裁判官は下役にわたし、そして、あなたは獄に入れられるであろう。 

26 よくあなたに言っておく。最後の一コドラントを支払ってしまうまでは、決してそこから出てくることはできない。 

 終末の時のしるしが立て続け現れると、私たちの意識は今起きつつあること、これから起こり得ることに集中しがちである。しかし主の再臨に備えるということは、「すでに起きてしまったこと」にも大いに関わっている。例えば、和解や赦しが必要な時である。過去に傷つけてしまったこと、言った言葉は取り返せない。だが、心から悔い改めれば、神は赦して下さる。しかし、ある兄弟とのわだかまりや憤りを未解決のまま心に残して、その兄弟と永遠の命を共有できるだろうか。

Ⅱコリント5:10

なぜなら、わたしたちは皆、キリストのさばきの座の前にあらわれ、善であれ悪であれ、自分の行ったことに応じて、それぞれ報いを受けねばならないからである。

 それぞれの魂は、未来に関する知識や、実現したい、できるだろうと願っていた素晴らしい希望によってではなく、自分の行ったことに応じて報いを受けるのならば、自分の行おうとすることを一度自分の目の前に置き、悔い改めるべきことは悔い改め、未来の対する確かな備えをするのは、妥当ではないだろうか。