an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

マタイ二十四章の解釈

 マタイ二十四章もまた、終わりの時の啓示を語っている。しかし、私は以下の聖句によって、主イエスが基本的にユダヤ人に対して語っていたと解釈する。

まずイエスがこの話を弟子たちにすることになったきっかけである。

24:1、2 

1 イエスが宮から出て行こうとしておられると、弟子たちは近寄ってきて、宮の建物にイエスの注意を促した。 

2 そこでイエスは彼らにむかって言われた、「あなたがたは、これらすべてのものを見ないか。よく言っておく。その石一つでもくずされずに、そこに他の石の上に残ることもなくなるであろう」。

 明らかにエルサレムの神殿の破壊を預言しているのである。この預言は西暦七十年に警告として部分的に成就したが、最終的な成就は大患難の時に訪れる。そしてこの神殿破壊の預言を聞いて、弟子たちは「いつ、そんなことが起るのでしょうか。あなたがまたおいでになる時や、世の終りには、どんな前兆がありますか」(3節)と質問した。その終わりの時に関する質問に対して、イエスは4節から詳細に語っている。その啓示の中で、次の二節は明らかにユダヤ人を意識した言葉である。

16 そのとき、ユダヤにいる人々は山へ逃げよ。

20 あなたがたの逃げるのが、冬または安息日にならないように祈れ。 

 また、 二十二節の救いの性質が、恵みの時に聖霊によって与えられている救いの性質とは、微妙に異なることも興味深い。

22 もしその期間が縮められないなら、救われる者はひとりもないであろう。しかし、選民のためには、その期間が縮められるであろう。 

 艱難の厳しさ故、その期間が縮められなかったら救われる者は一人もいないだろう。しかし選民の救いのために、神はその期間を縮められるであろう、というコンセプトは、聖霊によるパウロの勝利の告白とは異なる様に思える。

ローマ8:35-39

35 だれが、キリストの愛からわたしたちを離れさせるのか。患難か、苦悩か、迫害か、飢えか、裸か、危難か、剣か。 

36 わたしたちはあなたのために終日、死に定められており、ほふられる羊のように見られている」と書いてあるとおりである。 

37 しかし、わたしたちを愛して下さったかたによって、わたしたちは、これらすべての事において勝ち得て余りがある。 

38 わたしは確信する。死も生も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、 

39 高いものも深いものも、その他どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのである。 

  これもまた、地上における聖霊の働きが、教会の携挙の期に、それまでとは異なるものになることを暗示しているのではないかと思う。

 勿論、マタイ二十四章は、ユダヤ人以外にも霊的に有益であることは、言うまでもないことである。