an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

「当たり前の」信仰

ルカ17:5-10

5 使徒たちは主に「わたしたちの信仰を増してください」と言った。 

6 そこで主が言われた、「もし、からし種一粒ほどの信仰があるなら、この桑の木に、『抜け出して海に植われ』と言ったとしても、その言葉どおりになるであろう。 

7 あなたがたのうちのだれかに、耕作か牧畜かをする僕があるとする。その僕が畑から帰って来たとき、彼に『すぐきて、食卓につきなさい』と言うだろうか。 

8 かえって、『夕食の用意をしてくれ。そしてわたしが飲み食いをするあいだ、帯をしめて給仕をしなさい。そのあとで、飲み食いをするがよい』と、言うではないか。 

9 僕が命じられたことをしたからといって、主人は彼に感謝するだろうか。 

10 同様にあなたがたも、命じられたことを皆してしまったとき、『わたしたちはふつつかな僕です。すべき事をしたに過ぎません』と言いなさい」。 

 私達は僕であると口では言うが、畑仕事をし終えて家に帰った時のみならず、畑仕事している最中も、主人が私達のために豪華な食卓を用意してくれていると思い込んでいる。そして同じ僕仲間も、自分に給仕してくれることを期待したりする。そして食卓が用意されていないと、大騒ぎしてやったことをアピールしたり、不機嫌になったり、やる気をなくしたり、隅っこで「誰も自分のことを愛してくれない。ここには愛がない」とかウジウジ考え込んだりする。しかし「食卓を用意せよ」と命じられているのは、主ではなく、私達しもべなのだ。

 主よ、すべきことを当たり前に実行する、「当たり前の」信仰を与えてください。