an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

なぜ礼拝に参加するのか

へブル10:19-26

19 兄弟たちよ。こういうわけで、わたしたちはイエスの血によって、はばかることなく聖所にはいることができ、 

20 彼の肉体なる幕をとおり、わたしたちのために開いて下さった新しい生きた道をとおって、はいって行くことができるのであり、 

21 さらに、神の家を治める大いなる祭司があるのだから、 

22 心はすすがれて良心のとがめを去り、からだは清い水で洗われ、まごころをもって信仰の確信に満たされつつ、みまえに近づこうではないか。 

23 また、約束をして下さったのは忠実なかたであるから、わたしたちの告白する望みを、動くことなくしっかりと持ち続け、 

24 愛と善行とを励むように互に努め、 

25 ある人たちがいつもしているように、集会をやめることはしないで互に励まし、かの日が近づいているのを見て、ますます、そうしようではないか。 

 25節は「教会には行かなければならない」という律法的な態度で引用されることが多い。一人の信者が他の信仰者と交わりを持つというのは、キリストの体を構成する肢体として当然のことだが、この書の筆記者が命令形ではなく「励まし」という形で勧めているように、当然のことに困難や戸惑いを感じることも現実にはあるのである。そんな時はやはり、御言葉から信仰の力、そして自己修正する勇気を受け取ることがベストである。その経験を通して、誰かが似たような状況に陥っている時、御言葉の正しい用い方によって、聖霊が望むようにその人を励ますことができるからである。

 実際25節の文脈は励ましに満ちている。

  1. まず第一に、最も清い神の御前に入っていける「可能性」である(「聖所にはいることができる」「はいって行くことができる」)。キリストの十字架の死以前には、与えられていなかった恵みである。
  2. しかも、その可能性は曖昧なものではなく、確かな手段もしくは基礎をもっている(「イエスの血によって」「彼の肉体なる幕をとおり」「新しい生きた道をとおって」)。
  3. その道は私たち罪びとのためである。神は道なき所に新しい道を開き、その通行権をも与えてくださったのである(「わたしたちのために開いて下さった新しい生きた道」)。
  4. その権利を与えてくださった主権者は、「神の家を治める大いなる祭司」「忠実なかたである」イエス・キリストである。彼は罪びとのようにコロコロと考えや態度を変えたりはしない。また御自身の働きに忠実であるがゆえ、私達の「心はすすがれて良心のとがめを去り、からだは清い水で洗われ」ることができるのである。
  5. その結果、誰にも「はばかることなく」、「まごころをもって信仰の確信に満たされつつ」、御前に近づくことができるのだ。
  6. これらの恵みの前提条件があるから、私達一人ひとりが御前に立てない理由は存在しない。しかも恵みによって受けているからこそ、「」と「善行」が生まれ、互いに励まし合う責任が存在するのである。ここに教会、つまり信仰者の交わりの本質がある。
  7. そして、その責任には主権者の神による裁定が伴う。その時は必ず来る(「かの日が近づいているのを見て」)。そこには「神に対する畏れ」が生まれるのである。

エペソ5:21

キリストに対する恐れの心をもって、互に仕え合うべきである。

へブル12:28

このように、わたしたちは震われない国を受けているのだから、感謝をしようではないか。そして感謝しつつ、恐れかしこみ、神に喜ばれるように、仕えていこう。

 「ある人たちがいつもしているように、集会をやめることはしないで」。礼拝に参加しない誘惑は、極々身近にあるかもしれない。貴方は耳元でその声を聞き、その手は優しく貴方の肩を抱くかもしれない。しかし、御言葉は貴方の心の根元に力強く働きかけるので、律法的な重荷としてではなく、キリストの命として誘惑から解放してくれるだろう。

 「なぜ礼拝に参加するのか」「なぜ教会が必要なのか」。順調に礼拝に参加できる時期こそ、これらの省察をするべきだろう。不和や躓きなどで、モチベーションが低下し、現実をネガティブにしか見れない時期は、誰にでも必ずくるのだから。