悔い改めの必要性
マタイ18:3
よく聞きなさい。心をいれかえて幼な子のようにならなければ、天国にはいることはできないであろう。
マルコ10:15
よく聞いておくがよい。だれでも幼な子のように神の国を受けいれる者でなければ、そこにはいることは決してできない」。
「天国にはいる」「神の国にはいる」つまり「魂が救われる」条件をイエス・キリストは語っている。
- 心をいれかえて幼な子のようにならなければ (新改訳 あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り)
- だれでも幼な子のように神の国を受けいれる者でなければ
もし私達罪びとが、はじめからこれらの条件を満たしているのならば、イエスはあえてこのことを語る必要があっただろうか。もし私達が幼子のように素直で純粋であったなら、どうしてそのようにならなければいけないのか。悔い改める必要はないだろうし、イエスも「大丈夫。あなたたちはもう救われています」と語っただろう。
ヨハネ3:1-6
1 パリサイ人のひとりで、その名をニコデモというユダヤ人の指導者があった。
2 この人が夜イエスのもとにきて言った、「先生、わたしたちはあなたが神からこられた教師であることを知っています。神がご一緒でないなら、あなたがなさっておられるようなしるしは、だれにもできはしません」。
3 イエスは答えて言われた、「よくよくあなたに言っておく。だれでも新しく生れなければ、神の国を見ることはできない」。
4 ニコデモは言った、「人は年をとってから生れることが、どうしてできますか。もう一度、母の胎にはいって生れることができましょうか」。
5 イエスは答えられた、「よくよくあなたに言っておく。だれでも、水と霊とから生れなければ、神の国にはいることはできない。
6 肉から生れる者は肉であり、霊から生れる者は霊である。
ニコデモはユダヤ教の指導者の一人として、当然イスラエルの神を信じていた。イエスが「神からこられた教師であること」「神がともにおられること」を信じて告白もしていた。現代的な福音宣教においては、「救われたもの」として扱われていただろう。それでもイエスはそのニコデモにはっきりと言った。「だれでも新しく生れなければ、神の国を見ることはできない」「だれでも、水と霊とから生れなければ、神の国にはいることはできない」と。イエスの態度は、排他的で愛に欠けていたのだろうか。貴方だったら、経験豊かな聖職者の意見とイエス・キリストの御言葉のどちらを信じるだろうか。イエスは誰よりも人の心を完全に理解していたから、これらの必要を語ったのではないだろうか。ニコデモに対する、またすべての人に対する一見排他的な言葉も、実は正確な人間理解に基づいている。
ヨハネ2:23-25
23 過越の祭の間、イエスがエルサレムに滞在しておられたとき、多くの人々は、その行われたしるしを見て、イエスの名を信じた。
24 しかしイエスご自身は、彼らに自分をお任せにならなかった。それは、すべての人を知っておられ、
25 また人についてあかしする者を、必要とされなかったからである。それは、ご自身人の心の中にあることを知っておられたからである。
ニコデモとの対話の記述の直前に書かれている言葉である。勿論、神はすべての人が救われることを望んでおり、またキリストの十字架によってその門は開いてくださった。
Ⅰテモテ2:4
神は、すべての人が救われて、真理を悟るに至ることを望んでおられる。
しかし、その救いは悔い改めの必要性を除外したものではない。
Ⅱペテロ3:9
ある人々がおそいと思っているように、主は約束の実行をおそくしておられるのではない。ただ、ひとりも滅びることがなく、すべての者が悔改めに至ることを望み、あなたがたに対してながく忍耐しておられるのである。
そして聖書は、神の願いに反して、悔い改めない人がいることを明記している。
黙示9:20,21
20 これらの災害で殺されずに残った人々は、自分の手で造ったものについて、悔い改めようとせず、また悪霊のたぐいや、金、銀、銅、石、木で造られ、見ることも聞くことも歩くこともできない偶像を礼拝して、やめようともしなかった。
21 また、彼らは、その犯した殺人や、まじないや、不品行や、盗みを悔い改めようとしなかった。
黙示16:8-11
8 第四の者が、その鉢を太陽に傾けた。すると、太陽は火で人々を焼くことを許された。
9 人々は、激しい炎熱で焼かれたが、これらの災害を支配する神の御名を汚し、悔い改めて神に栄光を帰することをしなかった。
10 第五の者が、その鉢を獣の座に傾けた。すると、獣の国は暗くなり、人々は苦痛のあまり舌をかみ、
11 その苦痛とでき物とのゆえに、天の神をのろった。そして、自分の行いを悔い改めなかった。
神が望んでおられるのは全ての人が救われることである。しかし、全ての人がそれを望んでいるわけではない。もし、神の国において永遠の時を神と共にいることを望んでない人が、その考えを悔い改めることなく、本人の意に反して救われてしまったら、彼にとってその永遠の時は「地獄」に等しいだろう。一緒にいたくもない神とともに、その神に対する賛美を永遠に聞き続けなければならないし、彼が望んでいることは何ひとつ出来ないのだから。聖書の神は、それほど残酷な神ではない。