an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

キリストの決意の中に歩む

ルカ9:51-53

51 さて、イエスが天に上げられる日が近づいたので、エルサレムへ行こうと決意して、その方へ顔をむけられ、 

52 自分に先立って使者たちをおつかわしになった。そして彼らがサマリヤ人の村へはいって行き、イエスのために準備をしようとしたところ、 

53 村人は、エルサレムへむかって進んで行かれるというので、イエスを歓迎しようとはしなかった。 

  この節から19章28節までは、ルカによる福音書においては、文脈上一つの区切りをなしていて、イエス・キリストの十字架における死に対する決意と、それに至る「宣教旅行」の過程が書き記されている。しかしその過程が地理的関係において、全く直線的でないことは大変興味深い。ルカの記述によると、以下の通りになる。

  • 9:51-53 サマリヤを通過
  • 10:38-42 エルサレム近郊のベタニヤにあるマルタとマリヤの家
  • 13:31 ガリラヤ
  • 17:11 サマリヤとガリラヤの間を通過
  • 18:35-19:10 エリコの町で、ザアカイの家に滞在
  • 19:11 エルサレム近郊

 ルカによる福音書のこの記述を「矛盾」や「不整合」と判断するのは、表層的だろう。28章に及ぶ使徒行伝において、使徒パウロの三回の伝道旅行の詳細を書き記した医師であり宣教師であったルカの、神の器としての働きを量りにかけるのには、それ相応の覚悟と前提が必要なはずである。

 私はむしろ、その霊的啓示に感謝したい。神の御心は確実で、その「決意」、つまり御心を実現するための意志と動機は、誰も変えることはできない。しかしその決意は、私達が考えるように、「直線的」に体現するとは限らないのだ。実際、使徒パウロの「ローマで福音を伝えたい」という願いは、エルサレムにおける捕囚、カイザリヤにおける2年以上の収監(使徒24:27)、地中海渡航中の難破における命の危険などを通って実現した。福音書筆者ルカは、その波乱万丈の行程に同行した者の一人で、これらの凄まじい体験をパウロと共有した生き証人だったことを忘れてはならない。

 今現在、私達それぞれがいる位置が、神の揺るがない「決意」の中にあることを信じて、御心を求め、それに従っていこう。たといそれが、私達の行きたい方向とは全く違うところに向かっていたとしても。また数々の困難を通ることになったとしても。