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夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

教会の本質―マタイ18章の考察(4)

マタイ18:15-17

15 もしあなたの兄弟が罪を犯すなら、行って、彼とふたりだけの所で忠告しなさい。もし聞いてくれたら、あなたの兄弟を得たことになる。

16 もし聞いてくれないなら、ほかにひとりふたりを、一緒に連れて行きなさい。それは、ふたりまたは三人の証人の口によって、すべてのことがらが確かめられるためである。 

17 もし彼らの言うことを聞かないなら、教会に申し出なさい。もし教会の言うことも聞かないなら、その人を異邦人または取税人同様に扱いなさい。  

  十六節は第一段階で和解が成立しなかったときに進むべき次のステップである。もしあなたがあなたに対して罪を犯した兄弟と二人きりで話しても和解できなかったなら、一人か二人の証人を連れて再び話し合い、解決を探すというものである。これは、モーセの律法を基にしたプロセスである。

申命19:15

どんな不正であれ、どんなとがであれ、すべて人の犯す罪は、ただひとりの証人によって定めてはならない。ふたりの証人の証言により、または三人の証人の証言によって、その事を定めなければならない。

 罪を犯した者のその罪だけではなく、訴える側や証人側の不正に対しても、公正と責任を求める戒めである。よく旧約聖書を表面的に読んで、歪んだ神のイメージをもっている人がいるが、その多くは、律法を通して神がイスラエルの民と結んだ「契約」という、非常に正確な概念を理解していないことに起因する。神はその契約を通して御自身の民に祝福を約束していたが、当然どの契約関係と同様、契約を破った時の処罰も条件の中に含まれていた。しかもその裁定のプロセスも非常に正確で公正なものであった。

申命7:2-7

2 あなたの神、主が賜わる町で、あなたがたのうちに、もし男子または女子があなたの神、主の前に悪事をおこなって、契約にそむき、 

3 行って他の神々に仕え、それを拝み、わたしの禁じる、日や月やその他の天の万象を拝むことがあり、 

4 その事を知らせる者があって、あなたがそれを聞くならば、あなたはそれをよく調べなければならない。そしてその事が真実であり、そのような憎むべき事が確かにイスラエルのうちに行われていたならば、 

5 あなたはその悪事をおこなった男子または女子を町の門にひき出し、その男子または女子を石で撃ち殺さなければならない。 

6 ふたりの証人または三人の証人の証言によって殺すべき者を殺さなければならない。ただひとりの証人の証言によって殺してはならない。 

7 そのような者を殺すには、証人がまず手を下し、それから民が皆、手を下さなければならない。こうしてあなたのうちから悪を除き去らなければならない。  

  イエス・キリストの贖いによって、イスラエルの民とだけであった契約は、新しい恵みの契約によって全人類に及んだ。キリストの死によって、処罰の形態も変わった(むしろその恵みの絶大さゆえ、その恵みの契約をないがしろにする者に対する処罰は、より厳格なものとなった。へブル10:26-29)。しかし、新しい契約においても、その正確さと公正さの本質は不変である。

Ⅱコリント13:1

わたしは今、三度目にあなたがたの所に行こうとしている。すべての事がらは、ふたりか三人の証人の証言によって確定する。

Iテサロ5:19

長老に対する訴訟は、ふたりか三人の証人がない場合には、受理してはならない。 

 人間の心を完全に計り知る全知全能の神が、ダイレクトな審判を行わず、このようなプロセスを人間に委ねることを選ぶこと自体、神が私達を責任ある神の子として扱おうとしていることの証明ではないだろうか。主人や他人に責任転嫁し、自己責任を決して負おうとしない卑しい奴隷のようにではなく。神がこのプロセスを、罪を犯した者にではなく、被害を受けた者に課していることは、大変重要なポイントである。被害者と証人が「赦しと和解」という、キリストの霊と同じ霊によって導かれるためである。これもまた、教会の本質の一つである。

 十七節ではさらに、第二のステップでも解決できなかった場合の最終的なプロセスが書かれている。

17 もし彼らの言うことを聞かないなら、教会に申し出なさい。もし教会の言うことも聞かないなら、その人を異邦人または取税人同様に扱いなさい。  

 キリストの御名によって集う二人三人の中にはキリストの臨在があり、それが地上における教会の本質であり核であることはすでに説明したが、この聖句にある「教会」とは何を指すのだろうか。どこかの組織化した教団に属している教会のことだろうか。私は十八節に啓示されている「つながり」のことを指していると考えている。そのつながりがどのくらいの人数がいて、どんな組織構造をもっていて、どんな建物で集うかというのは問題ではなく、キリストにおいてそれぞれが実際にがつながって生きているかである。そのつながった集まりに対して、その罪を犯し頑なになっている兄弟のことを話し、悔い改めを勧めなさい、と言っているのである。

 そしてその共同体の意見に対しても悔い改めない場合は、「その人を異邦人または取税人同様に扱いなさい」、つまり同じ信仰を分かち合う兄弟としてではなく、異なるものを信じている者として扱いなさい、と命じている。これは未信者のことではない。なぜなら、彼は信者だといいながらも悔い改めも拒んでいるからである。 

ロマ 16:17

さて兄弟たちよ。あなたがたに勧告する。あなたがたが学んだ教にそむいて分裂を引き起し、つまずきを与える人々を警戒し、かつ彼らから遠ざかるがよい。 

Ⅰコリ5:9-13

9 わたしは前の手紙で、不品行な者たちと交際してはいけないと書いたが、

10 それは、この世の不品行な者、貪欲な者、略奪をする者、偶像礼拝をする者などと全然交際してはいけないと、言ったのではない。もしそうだとしたら、あなたがたはこの世から出て行かねばならないことになる。

11 しかし、わたしが実際に書いたのは、兄弟と呼ばれる人で、不品行な者、貪欲な者、偶像礼拝をする者、人をそしる者、酒に酔う者、略奪をする者があれば、そんな人と交際をしてはいけない、食事を共にしてもいけない、ということであった。

12 外の人たちをさばくのは、わたしのすることであろうか。あなたがたのさばくべき者は、内の人たちではないか。外の人たちは、神がさばくのである。

13 その悪人を、あなたがたの中から除いてしまいなさい。

  これらの聖句は、この正確なプロセスを踏まえて解釈すべきである。この神のプロセスに従わないゆえに、つながっているべき魂が疎外され、解かれているべき魂がつながってい、その結果教会が悔い改めない罪で蝕まれてしまうのだ。非常に良い働きをしていた教会が、徐々にカルト化したり、信仰から逸れていくのは、これらの聖句をないがしろにし、自浄機能を失ってしまうことが大きな原因の一つではないだろうか。

 「取税人同様に扱いなさい」このイエス・キリストの戒めを書き記したマタイが、回心前に取税人であったことは意味深い。もし彼が昔の罪を完全に悔い改めて新しく生まれていなかったら、この箇所を省略していたことだろう。しかしそのマタイも、イエス・キリストに招きに悔い改め、全てを捨てて従った一人だったのである(マタイ9:9、マルコ2:14、ルカ5:27)。

(5)へ続くhttp://eastwindow18.hatenadiary.com/entry/2013/08/03/190920