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夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

教会の本質―マタイ18章の考察(2)

マタイ18:6-14

6 しかし、わたしを信ずるこれらの小さい者のひとりをつまずかせる者は、大きなひきうすを首にかけられて海の深みに沈められる方が、その人の益になる。 

7 この世は、罪の誘惑があるから、わざわいである。罪の誘惑は必ず来る。しかし、それをきたらせる人は、わざわいである。 

8 もしあなたの片手または片足が、罪を犯させるなら、それを切って捨てなさい。両手、両足がそろったままで、永遠の火に投げ込まれるよりは、片手、片足になって命に入る方がよい。 

9 もしあなたの片目が罪を犯させるなら、それを抜き出して捨てなさい。両眼がそろったままで地獄の火に投げ入れられるよりは、片目になって命に入る方がよい。 

10 あなたがたは、これらの小さい者のひとりをも軽んじないように、気をつけなさい。あなたがたに言うが、彼らの御使たちは天にあって、天にいますわたしの父のみ顔をいつも仰いでいるのである。〔 

11 人の子は、滅びる者を救うためにきたのである。〕 

12 あなたがたはどう思うか。ある人に百匹の羊があり、その中の一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、その迷い出ている羊を捜しに出かけないであろうか。 

13 もしそれを見つけたなら、よく聞きなさい、迷わないでいる九十九匹のためよりも、むしろその一匹のために喜ぶであろう。 

14 そのように、これらの小さい者のひとりが滅びることは、天にいますあなたがたの父のみこころではない。 

 「これらの小さい者のひとり」という表現が三回繰り返されている(6、10、14節)。六節には「わたしを信じる」という説明があるので、「これらの小さい者のひとり」とは、「キリストの名によって集められた信者の一人」のことを指している。そして十節「あなたがたは、これらの小さい者のひとりをも軽んじないように、気をつけなさい」にあるように、イエス・キリストは神を信じない人々の中で起こる困難ではなく、明らかに信者同士の交わりの中で起こり得る躓き、スキャンダルについて語っているのである。つまりキリストにおける交わりの中で、誰でも加害者となる可能性を持っているその危険を警告しているのである。

 またイエスは、私たちが加害者になった時に自己弁解する傾向があることも知っておられ、その逃げ道に御言葉の剣を置いた(8,9節)。「罪びとだから仕方ない」「肉は弱いから」「裁いてはいけない」「神は私の弱さを知っている」。私たちは何度、自己弁護のためにこのように言葉を口に出したり、心の中で思ったことだろうか。しかし、自己弁護の霊は一見弱々しく思えるが、私たちの「うなじを固くし」、大きなひきうすが首に掛けられていることも感じさせない程、私たちの心を頑なにしてしまう。しかしイエス・キリストは、たといクリスチャンであろうと(当然、牧師や教師、あらゆる聖職者も例外ではない)、躓きをもたらすものは不信仰な者と同様の裁きを受ける危険を啓示している。「裁いてはいけない」なんて言っている場合ではないのである。

 不特定多数の中の個人的には知らない一人を、知らないうちに言葉や態度、誤った選択で傷つけてしまうことは大いにあり得る。しかしここでイエスが警告しているのは、二人三人という最低限の集まりの中の、非常に個人的に交わりを持っている者を躓かせないように注意しなさい、と言っているのである。つまり具体的な交わりの中で、十分意識して、一人でも躓かせないように注意しなさい、と命じているのである。

 このような「神への畏れの心」を失っている交わりは、教会という形を保っていても、もはやその本質を失ってしまっていると言える。

(3)へ続くhttp://eastwindow18.hatenadiary.com/entry/2013/08/01/093337