an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

ロトのことも思い出しなさい(5)ルツとナアマ

マタイ1:5-7

5 サルモンはラハブによるボアズの父、ボアズはルツによるオベデの父、オベデはエッサイの父、 

6 エッサイはダビデ王の父であった。ダビデはウリヤの妻によるソロモンの父であり、 

7 ソロモンはレハベアムの父、 

 この聖句は、新約聖書を一頁目から読みはじめると最初に現われる、イエス・キリストの系図の一部である。当然、ある程度旧約聖書の知識がないと、これらのカタカナ名の羅列は、日本語で書かれているとは思えないほど、読んでいても何も伝わってこない。しかし逆に、それぞれの人物に関してある程度知識を持っていると、実に豊かな意味を含んだ箇所となるのである。今回は、ロトのテーマに合わせて、その一部を読み取ってみたい。

 今回注目すべきは、「ボアズはルツによるオベデの父」と「ソロモンはレハベアムの父」という箇所である。まず、短いので『ルツ記』を読んでみて欲しい。士師記に記録されている霊的倫理的に無秩序な時代と同じ時期に、信仰によって生き抜いた一人の女性のことが記されている。しかも、何とこの女性は、ロトの子孫であるモアブ人であったのである(ルツ1:4)。

 先日引用した聖句には、「アンモンびととモアブびとは主の会衆に加わってはならない。彼らの子孫は十代までも、いつまでも主の会衆に加わってはならない」(申命記23:3)とある。 しかし、律法によって遠ざけられていたモアブ人のルツは、自分の前に立ちはだかっていたこの律法の呪いを、信仰によって乗り越えてしまった(地理的に見ると、モアブの土地とユダのベツレヘムとの間に、死海が横たわっていることは非常に興味ふかい。ルツはこの物理的境界線を越えて、自分にとっては異国である、イスラエルの国へ移住したのである。それは彼女の決断と信仰の実質を表している。自分と全く同じ立場にいたオルパは、号泣しながらもモアブの土地に留まったのである。ルツが生きていた時代には、モアブとエドムの境界線のところにあのゾアルはまだ存在していたことも大変興味深い)。

 ここまでは、ルツの模範的な信仰のゆえに理解し易いが、聖書は恵みに関するさらに深い真理を私たちに教えてくれている。もう一つの箇所は「ソロモンはレハベアムの父」とあるが、このレハベアムの母は、なんとアンモン人のナアマであった。

Ⅰ列王14:21、31

21 ソロモンの子レハベアムはユダで世を治めた。レハベアムは王となったとき四十一歳であったが、主がその名を置くために、イスラエルのすべての部族のうちから選ばれた町エルサレムで、十七年世を治めた。その母の名はナアマといってアンモンびとであった。

31 レハベアムはその先祖と共に眠って先祖と共にダビデの町に葬られた。その母の名はナアマといってアンモンびとであった。その子アビヤムが代って王となった。 

 僅か十節で書かれたレハベアム王の生涯の記録の中に、二回も彼の母がアンモン人だったことが記されている。聖書は特に彼女が信仰の人であったとは書いていない。むしろ神は、ソロモン王が近隣諸国と政治的和平を得るために、数々の異国の女性たちと戦略結婚したことを戒めていた(妾も合わせるとその数は千人近くであった)。なぜなら、これらの異邦人の妻たちは、ソロモン王を偶像崇拝に走らせたからである。

Ⅰ列王11:1-8

1 ソロモン王は多くの外国の女を愛した。すなわちパロの娘、モアブびと、アンモンびと、エドムびと、シドンびと、ヘテびとの女を愛した。 

2 主はかつてこれらの国民について、イスラエルの人々に言われた、「あなたがたは彼らと交わってはならない。彼らもまたあなたがたと交わってはならない。彼らは必ずあなたがたの心を転じて彼らの神々に従わせるからである」。しかしソロモンは彼らを愛して離れなかった。 

3 彼には王妃としての妻七百人、そばめ三百人があった。その妻たちが彼の心を転じたのである。 

4 ソロモンが年老いた時、その妻たちが彼の心を転じて他の神々に従わせたので、彼の心は父ダビデの心のようには、その神、主に真実でなかった。 

5 これはソロモンがシドンびとの女神アシタロテに従い、アンモンびとの神である憎むべき者ミルコムに従ったからである。 

6 このようにソロモンは主の目の前に悪を行い、父ダビデのように全くは主に従わなかった。 

7 そしてソロモンはモアブの神である憎むべき者ケモシのために、またアンモンの人々の神である憎むべき者モレクのためにエルサレムの東の山に高き所を築いた。 

8 彼はまた外国のすべての妻たちのためにもそうしたので、彼女たちはその神々に香をたき、犠牲をささげた。 

 これらの聖句から推測できることは、ナアマも他の妻たち同様、ソロモン王を偶像崇拝に走らせたことである。それにもかかわらずナアマは、その名は直接でてこないものの、イエス・キリストの系図の中にしっかりと組み込まれている。

 モアブ人のルツは、信仰によってイエス・キリストの系図に組み込まれ、アンモン人のナアマは、ソロモン王の不純な動機ゆえに、イエス・キリストの系図に組みかまれた。これらの事実は何を示しているのだろうか。律法によって呪われ、拒否されていたモアブびととアンモンびとの血が、メシアの血統のなかに組み入れられていたことによって、神の計画がイスラエルだけではなく、全ての民、元々律法によって断絶していた全ての異邦人にも及ぶことを意味していた。

ガラテヤ3:13,14,22

13 キリストは、わたしたちのためにのろいとなって、わたしたちを律法ののろいからあがない出して下さった。聖書に、「木にかけられる者は、すべてのろわれる」と書いてある。 

14 それは、アブラハムの受けた祝福が、イエス・キリストにあって異邦人に及ぶためであり、約束された御霊を、わたしたちが信仰によって受けるためである。 

22 しかし、約束が、信じる人々にイエス・キリストに対する信仰によって与えられるために、聖書はすべての人を罪の下に閉じ込めたのである。

 イエス・キリストが遣わされる前は、信仰によって生きていた人々も、不信仰な人々同様、罪によって死の支配下に生きていた。しかし、キリストの遣わされ、十字架の贖いを行ったことにより、「生粋のイスラエル人だから」とか、「モアブ人だから」「アンモン人だから」という人種的かつ肉的問題は完全に取り除かれ、問題はひとつの魂が、そのイエス・キリストによる贖いを信じるかどうか、という一点に完全に絞られたのである。

  またこのイエス・キリストの系図に含まれたモアブやアンモンの血は、純血性を頼りにしたり、それを偏重して媚を売る歪んだ信仰を戒めるものではないだろうか。