an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

ロトのことも思い出しなさい(4)妥協による忌まわしい実

創世記19:30-38

30 ロトはゾアルを出て上り、ふたりの娘と共に山に住んだ。ゾアルに住むのを恐れたからである。彼はふたりの娘と共に、ほら穴の中に住んだ。 

31 時に姉が妹に言った、「わたしたちの父は老い、またこの地には世のならわしのように、わたしたちの所に来る男はいません。 

32 さあ、父に酒を飲ませ、共に寝て、父によって子を残しましょう」。 

33 彼女たちはその夜、父に酒を飲ませ、姉がはいって父と共に寝た。ロトは娘が寝たのも、起きたのも知らなかった。 

34 あくる日、姉は妹に言った、「わたしは昨夜、父と寝ました。わたしたちは今夜もまた父に酒を飲ませましょう。そしてあなたがはいって共に寝なさい。わたしたちは父によって子を残しましょう」。 

35 彼bらはその夜もまた父に酒を飲ませ、妹が行って父と共に寝た。ロトは娘の寝たのも、起きたのも知らなかった。 

36 こうしてロトのふたりの娘たちは父によってはらんだ。 

37 姉娘は子を産み、その名をモアブと名づけた。これは今のモアブびとの先祖である。 

38 妹もまた子を産んで、その名をベニアンミと名づけた。これは今のアンモンびとの先祖である。 

  私が聖書を読みはじめた時に、先ず驚いた点の一つは、その人間に対するストレートな見方であった。人間の罪、傲慢、偽善、失態、弱さ、虚無感、絶望などを全く隠さず記録していることに、深く心を打たれた。様々な経験を通して、自分自身も含めた人間に対して深く絶望していた私の心にとって、まさしく鏡のように聖書のページの上に自分の心が映り込んでいたのである。地上でたった一つだった時に家族内で起きた殺人、信仰の父と言われることになる男の保身のための嘘、神の心に適ったと言われていた王の姦淫と殺人の罪、イエスの一番弟子の否定、使徒同士の激しい口論、教会の中での偽善と不品行、など数え切れない程のエピソードが、生々しい人間の実態を包み隠さず語っているのである。テレビなどを見れば特に珍しいことではないが、聖典と言われている一冊の本の中にこのような記述があること自体、とても衝撃的で、その余計な取り繕いや偽りのない高貴なスピリットに、完全に魂を「掴まれて」しまった。

 話がずれるが、信仰に関して心を開いていない人たちから、これらの聖書の生々しいエピソードのことで非難を受けたり、そのような意見を読んだことがある。個人的にはそのような非難は偽善でしかないと考えている。テレビやその他のメディアでは、ビジュアルを使ってもっと恐ろしい内容を、わざわざ作成して流し続けているのに、なぜ聖書を非難するのだろうか。しかも聖書は、そのような人間の罪深さに対して、救いのメッセージを提供しているのである。聖書の目的を考慮しない非難は、的はずれであろう。

 新約聖書において「義人」と呼ばれているロトと、彼の二人の娘たちの近親相姦のエピソードも、私を驚かせたエピソードの一つであった。よりによって「近親相姦」である。アンモン人とモアブ人の起源を示すためとはいえ、そのインパクトは強烈で、実に忌まわしいものである。ロトは完全に間違った場所にいた。ゾアルの町の外にある洞穴で二人の娘たちと怯えながら生活することに、どんな健全な将来を見出せたのだろうか。ロトは、信仰に生きていたアブラハムのところに帰るべきだった。「山に逃げなさい」という御使いの言葉に、そのメッセージを汲み取れなかったのだろうか。娘たちの「子孫を残さなければ」という切実な思い自体は、間違っていなかった。しかし、ロトが信仰によってなすべき唯一の事をしなかった故、その願いも妥協という悪の中にのみ込まれてしまった。

 神から与えられた御言葉に対する従順という信仰の歩みを捨て、教義的や倫理的妥協によって生み出された解決策は、その動機が善であっても、必ず忌々しい結果をもたらす。しかもその影響は、想像をはるかに超えたところまで及ぶのである。

 聖書の教えをないがしろにした超教派運動は、「キリストにあって一つになる」という尤もらしい動機を謳っていた。しかし、やはり「木はその実で判断する」のである。

 そして、アモン人やモアブ人が、イスラエルの民に敵対したのは(申命記23:3,4)、決して単なる偶然ではない。

(5)へ続くhttp://eastwindow18.hatenadiary.com/entry/2013/07/18/135427