an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

キリストの傷の中に

出エジプト32:30-34 

30  あくる日、モーセは民に言った、「あなたがたは大いなる罪を犯した。それで今、わたしは主のもとに上って行く。あなたがたの罪を償うことが、できるかも知れない」。 

31  モーセは主のもとに帰って、そして言った、「ああ、この民は大いなる罪を犯し、自分のために金の神を造りました。 

32  今もしあなたが、彼らの罪をゆるされますならば――。しかし、もしかなわなければ、どうぞあなたが書きしるされたふみから、わたしの名を消し去ってください」。 

33  主はモーセに言われた、「すべてわたしに罪を犯した者は、これをわたしのふみから消し去るであろう。 

34  しかし、今あなたは行って、わたしがあなたに告げたところに民を導きなさい。見よ、わたしの使はあなたに先立って行くであろう。ただし刑罰の日に、わたしは彼らの罪を罰するであろう」。 

 三十二節は、軽々しくコメントなどできない程、清く崇高である。まさに罪びとのために自らを犠牲にしてまで執り成しの祈りを捧げるキリストの霊が、モーセの中で働いていた。しかしさらに心を動かされるのが、三十四節にあるように、主なる神が罪を犯した民に対する刑罰を先送りして、モーセに民を導くように命じたことである。モーセの立場から考えると、この命令はあまりにも大変な重荷であった。神が民をその場で刑罰していたら、その重荷から解放されていたのかもしれない。同じように、地上的に考えれば、自分が死んでいたら、耐えきれないほどの任務を果たさなくてもよかったかもしれない。しかし神はモーセに「今あなたは行って、わたしがあなたに告げたところに民を導きなさい」と命じた。

 この文脈を考慮して三十三章を読むと、キリストの臨在、しかもかたくな民を約束の地に導こうとするキリストの臨在が浮き上がってくるのである。まず第一に、かたくなな民を滅ぼしかねないと宣言する主なる神の代わりに、モーセに先立って民を導くために遣わされた「ひとりの御使い」(33:2,3)である。次に、「宿営の外に張られた会見の幕屋」である。

出エジプト33:7-11

7 モーセは幕屋を取って、これを宿営の外に、宿営を離れて張り、これを会見の幕屋と名づけた。すべて主に伺い事のある者は出て、宿営の外にある会見の幕屋に行った。 

8 モーセが出て、幕屋に行く時には、民はみな立ちあがり、モーセが幕屋にはいるまで、おのおのその天幕の入口に立って彼を見送った。 

9 モーセが幕屋にはいると、雲の柱が下って幕屋の入口に立った。そして主はモーセと語られた。 

10 民はみな幕屋の入口に雲の柱が立つのを見ると、立っておのおの自分の天幕の入口で礼拝した。 

11 人がその友と語るように、主はモーセと顔を合わせて語られた。こうしてモーセは宿営に帰ったが、その従者なる若者、ヌンの子ヨシュアは幕屋を離れなかった。 

 この「宿営の外の会見の幕屋」は、エルサレムの門の外で苦しまれたイエス・キリストを表している。へブル人への手紙にはこう書いてある。

 へブル13:12,13

12 だから、イエスもまた、ご自分の血で民をきよめるために、門の外で苦難を受けられたのである。 

13 したがって、わたしたちも、彼のはずかしめを身に負い、営所の外に出て、みもとに行こうではないか。 

 キリストうちに神の臨在(雲の柱はそのしるしであった)が宿り、神と人が「顔を合わせて」出会い語り得るところである。会見が終わるとモーセは宿営に帰っていたが、ヨシュアは幕屋を離れなかったのも、意味深い。一過性の目的で与えられていた律法と、キリストによる永遠の恵みを表している。

 三番目は、「主なる神の傍らにあった岩」である。この時、主なる神はモーセと会見の幕屋の中で話していたはずであるが、その小さな幕屋の中に「ひとつの岩」があったというのである。これは明らかに霊的なことを語っている。

出エジプト33:12-23

12 モーセは主に言った、「ごらんください。あなたは『この民を導きのぼれ』とわたしに言いながら、わたしと一緒につかわされる者を知らせてくださいません。しかも、あなたはかつて『わたしはお前を選んだ。お前はまたわたしの前に恵みを得た』と仰せになりました。 

13 それで今、わたしがもし、あなたの前に恵みを得ますならば、どうか、あなたの道を示し、あなたをわたしに知らせ、あなたの前に恵みを得させてください。また、この国民があなたの民であることを覚えてください」。 

14 主は言われた「わたし自身が一緒に行くであろう。そしてあなたに安息を与えるであろう」。 

15 モーセは主に言った「もしあなた自身が一緒に行かれないならば、わたしたちをここからのぼらせないでください。 

16 わたしとあなたの民とが、あなたの前に恵みを得ることは、何によって知られましょうか。それはあなたがわたしたちと一緒に行かれて、わたしとあなたの民とが、地の面にある諸民と異なるものになるからではありませんか」。 

17 主はモーセに言われた、「あなたはわたしの前に恵みを得、またわたしは名をもってあなたを知るから、あなたの言ったこの事をもするであろう」。 

18 モーセは言った、「どうぞ、あなたの栄光をわたしにお示しください」。 

19 主は言われた、「わたしはわたしのもろもろの善をあなたの前に通らせ、主の名をあなたの前にのべるであろう。わたしは恵もうとする者を恵み、あわれもうとする者をあわれむ」。 

20 また言われた、「しかし、あなたはわたしの顔を見ることはできない。わたしを見て、なお生きている人はないからである」。 

21 そして主は言われた、「見よ、わたしのかたわらに一つの所がある。あなたは岩の上に立ちなさい。 

22 わたしの栄光がそこを通り過ぎるとき、わたしはあなたを岩の裂け目に入れて、わたしが通り過ぎるまで、手であなたをおおうであろう。 

23 そしてわたしが手をのけるとき、あなたはわたしのうしろを見るが、わたしの顔は見ないであろう」。 

 この短い文章で、六回も「恵み」という言葉が繰り返されているのも、決して偶然ではない。そしてイスラエルの民に対して、二度目に律法が書かれた板が与えられる前であったことは、とても意味深い。神の臨在と導き、そして栄光の啓示を執拗に求めたモーセは、神の恵みによって、この「岩」の上に立たされ、そして神の栄光が通り過ぎた時、神自身によって岩の裂け目に入れられた。そして覆われた「神の手」が取り除かれたとき、「神の後ろ姿」を見た。見ることができない霊なる神によるこれらの「人体的顕現」は、全てイエス・キリストの啓示を予め顕していたのである。

 特に大切な啓示は、この「岩の裂け目に入れられたモーセ」である。モーセが自分で入ったのではなく、神によって入れられた。これは、神の恵みによって、キリストの「傷跡の中に入れられた」罪びとを表す。そう、私たち罪びとは、キリストの傷を通して、彼の体の中へバプタイズされたのである(ローマ6:3,4;コロサイ2:12)。そしてキリストの傷を通して癒しを受け(Ⅰペテロ2:24)、キリストの傷を通してのみ復活の栄光を見るのである(ピリピ3:10,11)。

 キリスト者として生きていく上で、裏切られたり、傷つけられたりして、心に深い傷を負うことがある。しかも、信者同士の関係で生まれる傷は、本当に深いものだ。理想的に言えば、在ってはならないことだし、あったとしてもすぐ赦さなければならないことは、皆自覚している。しかし、現実的には凄まじい葛藤があるのである。自分に対して罪を犯した人の裁きを求めたり、荒野のエリヤのように疲れ切って、全てが終ってしまうことを願ったりする。しかし、神は私たちの切実な祈りに応えてくれない。そして、「彼(彼女)と共に歩みなさい」「彼(彼女)のために祈りなさい」「彼(彼女)を赦しなさい」と、静かに語り続けるのである。私たちは、忘れよとしたり、目を逸らしたり、奉仕を一生懸命してみたりするが、全ては無駄である。傷はそこにあり、神が求めていることも、相変わらず傷の横で私達を待っているのである。

 私達が唯一できることは、キリストという岩の上に立つことだけである。自分の無力を告白し、ただ神の命令に従い、岩の上に立つのだ。その時、神はキリストの傷の中に私達を入れてくださる。その傷の中でのみ、私たちの傷は癒されるのである。

イザヤ53:5

しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲しめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。 

 そして、そのキリストの傷の中で気づくのである。自分の直ぐ隣に、自分を傷つけた張本人が同じように立っていることを。

 「赦し」は、とてもデリケートで、一番難しいテーマである。きれいごとは通用しない。無神経な「教え」は、癒すどころかさらに傷を深くする。

 唯一の解決策は、キリストの傷の中にある。