an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

現代福音宣教の問題点(4)「最大限における虚」と「最小限における充」

マタイ18:20

ふたりまたは三人が、わたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいるのである。 

  この聖句は、礼拝における主イエス・キリストの臨在と祝福を保証する神の約束として、頻繁に引用される。しかし、この聖句が置かれている文脈を考慮した上で引用するケースは、非常に稀である。つまり、ひとつのまとまった文脈を構成している十八章全体から、切り離して「利用」されてしまうことが多いのだ。これもまた現代福音宣教の問題点の一つである。この聖句の前にある、「もしあなたがたのうちのふたりが、どんな願い事についても地上で心を合わせるなら、天にいますわたしの父はそれをかなえて下さるであろう」という約束と共に、人間的地上的欲望に対してさえも、神の承認のしるしとして、祈りの成就と神の臨在が保証されてしまう。

 では十八章は何を語っているのであろう。まず一節から十四節までは、「小さい者たち」について語っている。「いったい、天国ではだれがいちばん偉いのですか」 という弟子たちの質問に対して、イエスは一人の幼子を呼び寄せ、真ん中に立たせ、「よく聞きなさい。心をいれかえて幼な子のようにならなければ、天国にはいることはできないであろう。この幼な子のように自分を低くする者が、天国でいちばん偉いのである。また、だれでも、このようなひとりの幼な子を、わたしの名のゆえに受けいれる者は、わたしを受けいれるのである」と答えられた。また、「あなたがたは、これらの小さい者のひとりをも軽んじないように、気をつけなさい」(10)「そのように、これらの小さい者のひとりが滅びることは、天にいますあなたがたの父のみこころではない」(14)と言い、「幼子のように自分を低くすること」「小さく低い者をキリストの名によって受け入れること」、また「その一人をも軽んじてつまづかせたりしてはいけないこと」を語っている。

 このような文脈上に、「あなたがたのうちのふたり」「ふたりまたは三人」という表現が使われているのである。幼子のように自分を低し、キリストの名によって互いに受け入れあっている、二人もしくは三人という「最小限」の交わりの中に、キリストが臨在してくださるのである。

 そのような交わりを実現するには、当然「互いに赦し合うこと」が必須条件であり、またその赦しが客観的かつ確実な土台を持っていなければ成り立たない。だからこそ、「キリストの名によって」集まる必要があるのである。つまり父なる神が、御子イエス・キリストの名において私達の罪を赦してくださり、受け入れてくださったという、神によって備えられた確かな土台があるからこそ、この集いが成立するのである。

 この赦しの土台を啓示するために、冒頭の聖句の前後で、イエスは赦しについて語っている。十五節から十八節までは、神の赦しを土台にした二人の罪びとの交わりが成立するための赦しの正確なプロセスが書かれており、また二十一節から三十五節までは、その互いに赦し合い、受け入れ合う交わりが、徹底したもの(七の七十倍)でなければいけないことを、たとえ話を使って語っている。三十三節の「わたしがあわれんでやったように、あの仲間をあわれんでやるべきではなかったか」という戒めは、互いが赦し合うことの「動機」として十分である。

 繁栄と成功の福音に振り回された教会は、会員数を増やすこと、大きくなること、様々な事業を成し遂げること、この世から認められることばかりに心が奪われ、「最小限における充」を見下し、「最大限の虚」に囚われてしまった。ラオデキヤ教会のように、大きくなること、富むこと、幸せになることを追い求め、一番大切な主イエス・キリストを教会の外に追い出してしまった(黙示録3:14-22)。

 イエス・キリストの完全な赦しを心に刻み込み、「最小限における臨在と祝福の約束」をへりくだって探し求める時ではないだろうか。

(5)へ続くhttp://eastwindow18.hatenadiary.com/entry/2013/07/03/184610