an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

清められたゲハジ

五月二十二日の『ゲハジの神』という投稿で、自身の貪欲が原因で、預言者エリシャに「ナアマンのらい病はあなたに着き、ながくあなたの子孫に及ぶであろう」という恐ろしい宣告を受けたゲハジについて書いた。

しかし不思議なことに、Ⅱ列王記8:1-6では再びゲハジが登場し、しかも王の前に立って証しをしているのである。

Ⅱ列王記8:1-6 

 エリシャはかつて、その子を生きかえらせてやった女に言ったことがある。「あなたは、ここを立って、あなたの家族と共に行き、寄留しようと思う所に寄留しなさい。主がききんを呼び下されたので、七年の間それがこの地に臨むから」。そこで女は立って神の人の言葉のようにし、その家族と共に行ってペリシテびとの地に七年寄留した。七年たって後、女はペリシテびとの地から帰ってきて、自分の家と畑のために王に訴えようと出ていった。時に王は神の人のしもべゲハジにむかって「エリシャがしたもろもろの大きな事をわたしに話してください」と言って、彼と物語っていた。すなわちエリシャが死人を生きかえらせた事を、ゲハジが王と物語っていたとき、その子を生きかえらせてもらった女が、自分の家と畑のために王に訴えてきたので、ゲハジは言った、「わが主、王よ、これがその女です。またこれがその子で、エリシャが生きかえらせたのです」。王がその女に尋ねると、彼女は王に話したので、王は彼女のためにひとりの役人に命じて言った、「すべて彼女に属する物、ならびに彼女がこの地を去った日から今までのその畑の産物をことごとく彼女に返しなさい」。 

 このエピソードは、聖書解釈の上である一つの問題を浮き彫りにする。らい病に罹っていたはずのゲハジが、なぜここでは王の前に立って、預言者エリシャを通して行われた神の働きの証しをしているのだろうか。

 当時、らい病に罹っていたものは穢れたものとして、民とも交われず、ましてや王の前に立つことなど許されていなかったからである。この解釈上の問題を解決するために、ある解釈書は「七年間の飢饉」を4:38に記述されている飢饉だとし、五章のナアマンのらい病がゲハジに転移したエピソードの前に、問題のエピソードを設定している。しかし、列王記全体の記述方法が時系列にそった方法なので、この解釈には無理があるだろう。この「七年の飢饉」を、6:25のサマリヤの「ひどい飢饉」と解釈するほうが妥当であろう。実際、その飢饉のあまりの厳しさに、女たちが自分の子供を煮て食べようとするほどであった(6:28,29)。このような残酷な事態が起こるほど凄まじい飢饉だったことを考えると、かって自分の子供を生き返らせてもらい、この度はエリシャの言葉によって飢饉から身を守ることができたこのシュナムの女は、本当に主なる神に愛されていたと言える。それは彼女が主の預言者エリシャを受け入れ(4:8-10)、信仰によってその言葉に従っていたからだろう。

 七年の飢饉が終わり、シュナムの女がその家族と自分の土地に戻ってみると、不在の間に誰かが勝手に自分のものにしていた。おそらく、揉め事になったのだろう。この女は、それを取り戻そうとして自分の子供を連れて王のところに訴え出た。ちょうどその時、問題のゲハジが、「エリシャが行ったすばらしいことを、残らず私に聞かせてくれ」という王のリクエストに対して、エリシャがシュナムの女の子供を生き返らせた証しをしているところであった。まさに神の導きである。王は実際に、女とその生き返った子供を目の当たりにして、女の要求を喜んで受け入れ、さらに不在の時にその畑から収穫した分も彼女に返還するよう命じた。

 このエピソードにおいて、らい病だったはずのゲハジは非常に重要な役割を担っている。まさに彼は神の働きの証人として、王の前で証しをしているのである。問題はなぜ、らい病だった彼が王の前にいることができたのか、である。

レビ記十三、十四章に書かれている、らい病に関する律法の記述に理解の鍵がある。

レビ記13:12,13

もしらい病が広く皮に出て、そのらい病が、その患者の皮を頭から足まで、ことごとくおおい、祭司の見るところすべてに及んでおれば、祭司はこれを見、もしらい病がその身をことごとくおおっておれば、その患者を清い者としなければならない。それはことごとく白く変ったから、彼は清い者である。 

 ゲハジがらい病になったエピソードを読み直すと、彼の体は「雪のように白くなった」(Ⅱ列王5:27)と書いてある。つまり、ゲハジはその貪欲の罪のためにらい病になったが、それと同時に彼の病気は祭司の前では「清い」ものであった。とても不思議な状況だが、これは見事にイエス・キリストによる神の恵みを体現してはいないだろうか。私たち罪びとはもともと神の前では穢れた存在であるが、イエス・キリストの十字架の血によって、私たちは「清い者」とみなされているのである。大祭司イエスが「清い」と判断してくださったのである。そして、「王」の前に立ち、「王」に仕えることを可能にしてくださった。そう、ゲハジがシュナムの女の子供の「よみがえり」を証ししていたように、私たちに復活した神の子、イエス・キリストを証しする務めを与えてくださったのだ。

 らい病に打たれていたはずのゲハジが、王に仕えていることが、とても不思議であった。しかしその不思議さは、一人ひとりのキリスト者にも当てはまる。周囲の人は噂して言う。「へえ、あいつが、神のことを話している。とんでもない奴だったのに。」また、自分たちでも驚くのである。「こんな自分が創造主なる神のことを語ることが許されているなんて!」

 

 この解釈は、前章七章で四人のらい病人たちが、サマリヤの町の救いのために重要な役割を担ったことと一緒に考慮すると、神の恵みについてより一層深い理解を持つことを助けてくれると思う。

 

使徒パウロの個人的な証しを引用して、結びとしたい。

Ⅰテモテ1:12-17

わたしは、自分を強くして下さったわたしたちの主キリスト・イエスに感謝する。主はわたしを忠実な者と見て、この務に任じて下さったのである。わたしは以前には、神をそしる者、迫害する者、不遜な者であった。しかしわたしは、これらの事を、信仰がなかったとき、無知なためにしたのだから、あわれみをこうむったのである。その上、わたしたちの主の恵みが、キリスト・イエスにある信仰と愛とに伴い、ますます増し加わってきた。「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世にきて下さった」という言葉は、確実で、そのまま受けいれるに足るものである。わたしは、その罪人のかしらなのである。しかし、わたしがあわれみをこうむったのは、キリスト・イエスが、まずわたしに対して限りない寛容を示し、そして、わたしが今後、彼を信じて永遠のいのちを受ける者の模範となるためである。世々の支配者、不朽にして見えざる唯一の神に、世々限りなく、ほまれと栄光とがあるように、アァメン。