an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

小さなエリヤ

Ⅱ列王18:41,42(新改訳)

それから、エリヤはアハブに言った。「上って行って飲み食いしなさい。激しい大雨の音がするから。」

そこで、アハブは飲み食いするために上って行った。エリヤはカルメル山の頂上に登り、地にひざまずいて自分の顔をひざの間にうずめた。

 この個所においても、エリヤの言動は実に不思議である。まず第一に、エリヤはアハブ王に「もうすぐ三年半ぶりの大雨が降るから、自分のところに帰って飲み食いしなさい」と言ったことである。しかし、アハブとその悪妻イゼベルは、イスラエルの民を神から遠ざけ、偶像崇拝に走らせた元凶であった。エリヤ自身もアハブに対してはっきり断罪していた(18:18)。しかもこの言葉は、バアルへの偶像崇拝を民の間で行っていた四百五十人の預言者たちに対して、預言者エリヤがたった一人で立ち向かい、カルメル山の上で大勝利をもたらした直後に言われたものである。バアルの預言者たちに対して行ったような厳しい処罰があっても、何も不思議ではなかった程、アハブ王は堕落していた。にもかかわらず、エリヤは「飲み食いしなさい」と勧めたのである。

  次に不思議なことは、エリヤの祈りの姿勢である。エリヤはたった一人で四百五十人(!)の預言者たちに挑戦し、それに対して神は天からエリヤの祭壇の上に火をもたらすことによって答えられた。民衆はそれを見て「主は神である。主は神である。」と叫んだ。これは「エリヤ」という名前の意味でもある。あなたの祈りが神に聞かれ、目を見張るほどの奇蹟が起きたことを想像してみて欲しい。しかも大衆の面前で、である。人々はその奇蹟を目にし、ひれ伏して神の名を繰り返し賛美している。それがまるであなたの名前を繰り返し叫んでいるように聞こえるのだ。あなたはどんな気分になるだろうか。おそらく、心持ちあなたの胸は膨らみ、かかとが微妙に浮いてしまうぐらいの気持ちになるだろう。会衆の前で立ち、両手を天に挙げて主の栄光を賛美したのではないだろうか。カメラとマイクを意識しながら。

 しかしエリヤは違った。エリヤはカルメル山の頂上に登り、地にひざまずいて自分の顔をひざの間にうずめた。つまりエリヤはこれ以上小さくなれないというほど、自らを小さくして祈ったのだ。

 常識的には理解できない場合には、霊的真理が隠されていることが多い。これらのエリヤの一連の言動は、イエス・キリストの型として捉えると理解することができる。エリヤのカルメル山上の勝利は、イエス・キリストがゴルゴタの丘の上で十字架に架かり、十字架を通して罪や死に対して決定的な勝利(コロサイ2:14、15)を収めたことの型である。エリヤがたった一人で四百五十人の預言者に立ち向かったように、神の子イエスもたった一人で全世界の罪と死に立ち向かい、勝利されたのである(ヨハネ16:33)。

 しかしその勝利者イエス・キリストは、その勝利の凱旋においても遜っておられた。栄光の復活のメッセージをまず一人のか弱い女性に託した。また、主を十字架に架けたユダヤ人を恐れて、部屋に閉じこもっていた弟子たちにご自身を顕示された(ヨハネ20:19-23)。十字架を前にイエスを見捨てたり、知らないと誓った、その弟子たちにである。

 そして何よりも驚くのは、復活した主イエスと出会ったにもかかわらず、意気消沈して自分達の土地に帰り、元の漁師の仕事を戻ろうとしていた弟子たちに、栄光の復活のイエス・キリストが再びご自身を啓示され、しかも彼らに対して「さあ来て、朝の食事をしなさい」と言って、パンと魚を与えたことである(ヨハネ21:12,13)。

 そして特にイエスのことを知らないと言ったペテロに対して、彼が滑り落ちてしまった所まで降りて行き、彼のことを導き上げた。まるで谷間に落ちてしまった子羊を助けるかのように(ヨハネ21:15-19)。

 復活した栄光の主は、その死の前同様、柔和で遜った方である(マタイ11:29)。いまでも彼は私たちの低さまで降りてきてくださり、この小さな私たちの心の中で、弱い私たちのために聖霊によって執り成しの祈りをしてくださるのだ(ローマ8:26)。

 そう、渇き切った心に恵みの雨が降り注ぐために。力なく、どうしていいかもわからない私たちに聖霊の力と知恵を与えるために。