an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

弱さのうちに顕れるキリストのいのち(1)封印された墓

ヨハネ19:38-42

そののち、ユダヤ人をはばかって、ひそかにイエスの弟子となったアリマタヤのヨセフという人が、イエスの死体を取りおろしたいと、ピラトに願い出た。ピラトはそれを許したので、彼はイエスの死体を取りおろしに行った。また、前に、夜、イエスのみもとに行ったニコデモも、没薬と沈香とをまぜたものを百斤ほど持ってきた。彼らは、イエスの死体を取りおろし、ユダヤ人の埋葬の習慣にしたがって、香料を入れて亜麻布で巻いた。イエスが十字架にかけられた所には、一つの園があり、そこにはまだだれも葬られたことのない新しい墓があった。その日はユダヤ人の準備の日であったので、その墓が近くにあったため、イエスをそこに納めた。 

 

マタイ27:62-66

あくる日は準備の日の翌日であったが、その日に、祭司長、パリサイ人たちは、ピラトのもとに集まって言った、「長官、あの偽り者がまだ生きていたとき、『三日の後に自分はよみがえる』と言ったのを、思い出しました。ですから、三日目まで墓の番をするように、さしずをして下さい。そうしないと、弟子たちがきて彼を盗み出し、『イエスは死人の中から、よみがえった』と、民衆に言いふらすかも知れません。そうなると、みんなが前よりも、もっとひどくだまされることになりましょう」。ピラトは彼らに言った、「番人がいるから、行ってできる限り、番をさせるがよい」。そこで、彼らは行って石に封印をし、番人を置いて墓の番をさせた。 

 

 主なる神は、預言者モーセをモアブの地の谷に葬られ、その墓を知る者はいない。神自身がモーセを密葬したのである(申命記34:5,6)。モーセに対してこのような特別な扱いをした父なる神は、なぜ愛するひとり子イエス・キリストの死の際には、罪びとらの手に完全にゆだねたのだろうか。彼らは、息絶え無抵抗の御子の体をどうすることもできた。ダヴィデ王の息子アブサロムの亡骸が、森のなかの深い穴に投げいれられたように(Ⅱサムエル18:17)。神は、罪びとが墓の入り口の石に封印さえすることを許された。罪びとが誇らしげに宣言するままにされた。「自分のことを世の救い主と言っていた、あのイエスはもう死んだ。すべては終わったのだ。もう誰も彼のことを見ることなくも、思い出す必要もないのだ」と。

 

神が御子の体を人の目から隠したのではない。人間が亜麻布で巻いたのである。

神が誰も入れないようにと墓の石に封印をしたのではない。人間がそれをしたのである。

 

 しかし御子イエス・キリストは、聖書に書いてある通り復活した。弟子たちが入り口の石を動かしたのではない。誰かがこっそり蘇生を行ったのではない。神が御子を復活させたのだ。

 

 キリスト者の最も重要な経験は、ここにある。すなわち、日々復活したキリストの命によって生きることにある。使徒パウロが書いているように、「わたしはキリストと共に十字架につけられた。生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである」(ガラテヤ2:19,20)という真理を信じて実際に生きていくことである。

 

 人間は「神は死んだ」「私は無神論者だ」と言って、キリストの福音に封印することも許されている。逆にアリマタヤのヨセフやニコデモのように、「神のために」時間とお金を注ぎ込んで何か熱心にすることもできる。しかし、そうした人間の思惑や行為が全て静まりかえったとき、復活したキリストの命が働きかけてくる。

 

Ⅱコリント12:9

わたしの恵みは、あなたに十分である。わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである。

 

神が私たちのことを待っておられる。

もっと静まったところで。もっと深いところで。

もっと弱いところで。