an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

土の器

Ⅱコリント4:5-7

しかし、わたしたちは自分自身を宣べ伝えるのではなく、主なるキリスト・イエスを宣べ伝える。わたしたち自身は、ただイエスのために働くあなたがたの僕にすぎない。 

「やみの中から光が照りいでよ」と仰せになった神は、キリストの顔に輝く神の栄光の知識を明らかにするために、わたしたちの心を照して下さったのである。 

しかしわたしたちは、この宝を土の器の中に持っている。その測り知れない力は神のものであって、わたしたちから出たものでないことが、あらわれるためである。

Ⅰテサロニケ5:23(新改訳)

平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なるものとしてくださいますように。主イエス・キリストに来臨のとき、責められるところのないように、あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られますように。

 人間の自己認識はますます断片化していき、まるで様々な機器で計測された数値によって人間が形成されているかのようだ。勿論、誰も最新医学などの貢献を否定することはできない。しかし、そのような分野に携わる専門家たちが時折示す、生命や宇宙の不可解さに対する一種の戸惑いみたいなものに接すると、その姿勢に共感というか、感心してしまうのだ。

 少し前に読んだ本に以下のようなことが書いてあった。

 自他の認識こそが生体にとって本質的なことであるのに、臓器移植はその生命の本質の一つ(免疫機構)を機能低下させない限り拒否反応で失敗する矛盾を抱えている。

(引用元:『医者も人の子 生と死を見つめて』佐藤栄一著 集英社文庫)

 なぜ移植された臓器を体が拒否するのか。理性的認識とは関係ないところで、生体がその臓器のアイデンティティーを自己に属するものと認知しないからである。それでは自己とはどこにあるのか。一般的に普及している考えの通り、脳が自己の本質か。しかし、時に発表される臨床医学的見解はそのような常識を覆している。

(参考:「脳波停止の後」に残る意識:蘇生医療の最前線から http://wired.jp/2013/05/02/consciousness-after-deathall/ )

 聖書は人間を全体的にとらえている。霊、魂、肉体、数値化できる要素とできない要素、認知できる要素とできない要素、すべてをまとめて「自我をもつ人間」として扱っている。

 イエス・キリストは、その全存在をもって十字架の上で人類の代わりに死んでくださった。十字架の上で苦しまれたのは、彼の肉体だけではなく、魂だけでも、霊だけでもない。霊、魂、肉体、全てをもって十字架の死による贖いのわざを成し遂げたのである。だからこそ、私たちのすべて、霊、魂、肉体のすべてを救い、守り、最終的に全く聖なるものとすることができるのである。

 土の器とは、肉体のことではなく、霊と魂、肉体を含む私たちの全ての存在のことである。その被造物としての弱さを抱えた土の器の中に、神は救いを通してキリストの永遠の霊を授けてくださった。そう、神は個体としての存在においてだけでなく、時間と空間の概念においても、全体的に見る目を与えてくださった。

伝道3:11

神のなされることは皆その時にかなって美しい。神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。それでもなお、人は神のなされるわざを初めから終りまで見きわめることはできない。