an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

「神の子たちは人の娘たちの美しいのを見て」の解釈(2)

 以下の添付ツイートの内容に関して、再度検証する機会が与えられたので、共有してみたい。

 論点は「神の子ら(Sons of God)…常に複数形で『御使い』を指す。聖なる天使か堕天使かは、文脈で判断。」という見解、特に「常に複数形で『御使い』を指す。」という部分である。

 前置きとして、ここで主張者は「堕天使」という「聖書には使われていない単語」(日本語の新改訳第三版、新改訳2017、口語訳、新共同訳、文語訳全てにおいて使用されていない表現)を使って自論を主張しているが、通常「三位一体」「義認」「聖化」「携挙」など聖書で使われていない表現を使っても「聖書解釈の大前提に違反する」とか「聖書に言葉を付け加えている」とは断定することはないので、私も主張者の表現をそのまま引用し検証したいと思う。

 

 まず大まかな私の見解は以下の記事によってすでに主張しているので、確認していただきたい。

  特に私が創世記6章の文脈において「神の子たち=御使い」説を合意できないのは、「大洪水が主なる神の当時の全人類に対する裁きであった」という前提に基づいて考えているからである。つまり、創造主なる神が、その絶対的主権と意志によって造った御使いという霊的被造物に対して、もともと神の許可無しでは持ちえない肉体と生殖機能を与えてまで罪を犯すことを許し、しかもその責任を御使いよりも力の遥かに弱い被造物である人間に負わせ、大洪水によって滅ぼすなど、倫理的にあり得ない選択だからである。

 実際に本文を読んでみると、主なる神は「人の悪」が地に蔓延り、「人の心に思いはかるすべてことが、いつも悪い事ばかりである」ゆえ、「地の上に人を造ったのを悔い」たのである。ここには堕天使の悪に関する言及は一切ない。だから堕天使ではなく「わたしが創造した人を地のおもてからぬぐい去ろう。」と決断した。

創世記6:1-12

1 人が地のおもてにふえ始めて、娘たちが彼らに生れた時、 

2 神の子たちは人の娘たちの美しいのを見て、自分の好む者を妻にめとった。 

3 そこで主は言われた、「わたしの霊はながく人の中にとどまらない。彼は肉にすぎないのだ。しかし、彼の年は百二十年であろう」。 

4 そのころ、またその後にも、地にネピリムがいた。これは神の子たちが人の娘たちのところにはいって、娘たちに産ませたものである。彼らは昔の勇士であり、有名な人々であった。 

5 主は人の悪が地にはびこり、すべてその心に思いはかることが、いつも悪い事ばかりであるのを見られた。 

6 主は地の上に人を造ったのを悔いて、心を痛め、 

7 「わたしが創造した人を地のおもてからぬぐい去ろう。人も獣も、這うものも、空の鳥までも。わたしは、これらを造ったことを悔いる」と言われた。 

8 しかし、ノアは主の前に恵みを得た。 

9  ノアの系図は次のとおりである。ノアはその時代の人々の中で正しく、かつ全き人であった。ノアは神とともに歩んだ。 

10 ノアはセム、ハム、ヤペテの三人の子を生んだ。 

11 時に世は神の前に乱れて、暴虐が地に満ちた。 

12 神が地を見られると、それは乱れていた。すべての人が地の上でその道を乱したからである。 

 この文脈で口語訳において「人」と和訳されている原語には、3種類ある。

1.【אָדָם 'âdâm】「人間 mankind」 3章においてはアダム個人に使われていたが、それは彼が最初の人間だったからである。

  • 2節「人の(娘たち)」
  • 3節「人」 
  • 4節「人(の娘たち)」
  • 5節「人(の悪)」
  • 6節「人(を造った)」
  • 7節「(私が創造した)人」「人(も獣も)」
  • 23節「人(も家畜も)」

2.【בָּשָׂר bâśâr】12-13節 より正確な訳語は「肉」である。実際、新改訳では「肉なるもの」と訳されている。

創世記6:11-13(新改訳)

11 地は、神の前に堕落し、地は、暴虐で満ちていた。

12 神が地をご覧になると、実に、それは、堕落していた。すべての肉なるものが、地上でその道を乱していたからである。 

13 そこで、神はノアに仰せられた。「すべての肉なるものの終わりが、わたしの前に来ている。地は、彼らのゆえに、暴虐で満ちているからだ。それで今わたしは、彼らを地とともに滅ぼそうとしている 。 

 これは3節にある「わたしの霊はながく人の中にとどまらない。彼は肉にすぎないのだ」という主の言葉に対して一貫性をもつ。つまり「人間」が地上でその道を乱し、堕落したゆえ、本来霊に統制されるべき存在が「肉なるもの」となり、主なる神は裁きを下すことに決めたのである。

 そして興味深いことに、この文脈において「人」と和訳されている3番目の原語がノアに使われていることである。

 3.【אִישׁ 'ı̂ysh】9節 「(全き)人」

(新改訳)

これはノアの歴史である。ノアは、正しいであって、その時代にあっても、全き人であった。ノアは神とともに歩んだ。            

 この単語は、旧約聖書全体で幅広い使われ方をしているので、単語の持つ意味を一つに限定することはできないが、集合名詞的使われ方ではなく、属性をもつ個人という使われ方をしている。ヨブ(ヨブ1:1)に対して、またモーセやシェマヤ、エリヤ、エリシャなどが「神の人」と表現されている時にこの単語が使われているのは興味深い(申命記33:1;列王上12:22;17:18;列王下5:8;など参照)。

 

 いずれにせよ、主なる神が「人の悪」「すべての肉なるものの堕落」を見て、それゆえ「人間を」大洪水によって裁くと決めたのである。

5 主は人の悪が地にはびこり、すべてその心に思いはかることが、いつも悪い事ばかりであるのを見られた。 

12 神が地をご覧になると、実に、それは、堕落していた。すべての肉なるものが、地上でその道を乱していたからである。 

13 そこで、神はノアに仰せられた。「すべての肉なるものの終わりが、わたしの前に来ている。地は、彼らのゆえに、暴虐で満ちているからだ。それで今わたしは、彼らを地とともに滅ぼそうとしている 。

  ここには神による「堕天使」に対する責任の追及など一切ない。

 

 ある人はⅡペテロ2:4-5を「神の子たち=堕天使」説の根拠として挙げているが、前後の文脈を読むと、ペテロは「主は、信心深い者を試錬の中から救い出し、また、不義な者ども、特に、汚れた情欲におぼれ肉にしたがって歩み、また、権威ある者を軽んじる人々を罰して、さばきの日まで閉じ込めておくべきことを、よくご存じなのである」という真理の例として、「罪を犯した御使たちの裁き」と「ノアの時代の不信仰な世界に対する裁き」、そして「ソドムとゴモラの町々に対する裁き」の三つを列挙しているのであって、二番目と三番目の例の文頭にある接続詞「また」が、三つの事例がそれぞれ別の内容であることを示しており、それら二つ、もしくは三つに因果関係があったと解釈する根拠はない。

Ⅱペテロ2:1-10

1 しかし、民の間に、にせ預言者が起ったことがあるが、それと同じく、あなたがたの間にも、にせ教師が現れるであろう。彼らは、滅びに至らせる異端をひそかに持ち込み、自分たちをあがなって下さった主を否定して、すみやかな滅亡を自分の身に招いている。 

2 また、大ぜいの人が彼らの放縦を見習い、そのために、真理の道がそしりを受けるに至るのである。 

3 彼らは、貪欲のために、甘言をもってあなたがたをあざむき、利をむさぼるであろう。彼らに対するさばきは昔から猶予なく行われ、彼らの滅亡も滞ることはない。 

4 神は、罪を犯した御使たちを許しておかないで、彼らを下界におとしいれ、さばきの時まで暗やみの穴に閉じ込めておかれた。 

5 また、古い世界をそのままにしておかないで、その不信仰な世界に洪水をきたらせ、ただ、義の宣伝者ノアたち八人の者だけを保護された。 

6 また、ソドムとゴモラの町々を灰に帰せしめて破滅に処し、不信仰に走ろうとする人々の見せしめとし、 

7 ただ、非道の者どもの放縦な行いによってなやまされていた義人ロトだけを救い出された。 

8 (この義人は、彼らの間に住み、彼らの不法の行いを日々見聞きして、その正しい心を痛めていたのである。) 

9 こういうわけで、主は、信心深い者を試錬の中から救い出し、また、不義な者ども、 

10 特に、汚れた情欲におぼれ肉にしたがって歩み、また、権威ある者を軽んじる人々を罰して、さばきの日まで閉じ込めておくべきことを、よくご存じなのである。

 同様のことが『ユダの手紙』における言及に関しても言える。

ユダ4-7

4 そのわけは、不信仰な人々がしのび込んできて、わたしたちの神の恵みを放縦な生活に変え、唯一の君であり、わたしたちの主であるイエス・キリストを否定しているからである。彼らは、このようなさばきを受けることに、昔から予告されているのである。 

5 あなたがたはみな、じゅうぶんに知っていることではあるが、主が民をエジプトの地から救い出して後、不信仰な者を滅ぼされたことを、思い起してもらいたい。 

6 主は、自分たちの地位を守ろうとはせず、そのおるべき所を捨て去った御使たちを、大いなる日のさばきのために、永久にしばりつけたまま、暗やみの中に閉じ込めておかれた。 

7 ソドム、ゴモラも、まわりの町々も、同様であって、同じように淫行にふけり、不自然な肉欲に走ったので、永遠の火の刑罰を受け、人々の見せしめにされている。

 ユダは「不信仰なものに裁きが下る」という真理を証明するために、「エジプトの不信仰な民に対する裁き」と「堕天使に対する裁き」そして「ソドムとゴモラ、周りの町々に対する裁き」と列挙しているのである。

 ちなみに7節の「彼らと同じように」が、前節の「そのおるべき所を捨て去った御使たち」を意味しているという解釈があるが、文脈的に4節の「わたしたちの神の恵みを放縦な生活に変え、唯一の君であり、わたしたちの主であるイエス・キリストを否定している不信仰な人々」と解釈するほうが明確な根拠を持っている。8節の「この人たちもまた同じように、...肉体を汚し権威ある者を軽んじ」が、それを示している。

7-8(新改訳)

7 また、ソドム、ゴモラおよび周囲の町々も彼らと同じように、好色にふけり、不自然な肉欲を追い求めたので、永遠の火の刑罰を受けて、みせしめにされています。 

それなのに、この人たちもまた同じように、夢見る者であり、肉体を汚し、権威ある者を軽んじ、栄えある者をそしっています。 

 

 また御使いはそれが神のしもべである天使であろうと、堕天使であろうと、霊的被造物に過ぎず、創造主なる神の絶対的主権による許可の範囲でなければ、権能を持たない。苦難の僕ヨブのエピソードがその一例である。

ヨブ2:1-7(新改訳)

1 ある日のこと、神の子らが主の前に来て立ったとき、サタンもいっしょに来て、主の前に立った。 

2 主はサタンに仰せられた。「おまえはどこから来たのか。」サタンは主に答えて言った。「地を行き巡り、そこを歩き回って来ました。」 

3 主はサタンに仰せられた。「おまえはわたしのしもべヨブに心を留めたか。彼のように潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっている者はひとりも地上にはいない。彼はなお、自分の誠実を堅く保っている。おまえは、わたしをそそのかして、何の理由もないのに彼を滅ぼそうとしたが。」

4 サタンは主に答えて言った。「皮の代わりには皮をもってします。人は自分のいのちの代わりには、すべての持ち物を与えるものです。 

5 しかし、今あなたの手を伸べ、彼の骨と肉とを打ってください。彼はきっと、あなたをのろうに違いありません。」 

6 主はサタンに仰せられた。「では、彼をおまえの手に任せる。ただ彼のいのちには触れるな。」 

7 サタンは主の前から出て行き、ヨブの足の裏から頭の頂まで、悪性の腫物で彼を打った。 

 ヨブが受けた苦難は恐ろしく厳しいものであったが、それでも堕天使の長であるサタンには、ヨブの命に対する権限は与えられていなかった。

 また御子イエスがレギオンという名の悪霊どもを追い出したエピソードも興味深い。

ルカ8:26-33

26 それから、彼らはガリラヤの対岸、ゲラサ人の地に渡った。 

27 陸にあがられると、その町の人で、悪霊につかれて長いあいだ着物も着ず、家に居つかないで墓場にばかりいた人に、出会われた。 

28 この人がイエスを見て叫び出し、みまえにひれ伏して大声で言った、「いと高き神の子イエスよ、あなたはわたしとなんの係わりがあるのです。お願いです、わたしを苦しめないでください」。 

29 それは、イエスが汚れた霊に、その人から出て行け、とお命じになったからである。というのは、悪霊が何度も彼をひき捕えたので、彼は鎖と足かせとでつながれて看視されていたが、それを断ち切っては悪霊によって荒野へ追いやられていたのである。 

30 イエスは彼に「なんという名前か」とお尋ねになると、「レギオンと言います」と答えた。彼の中にたくさんの悪霊がはいり込んでいたからである。 

31 悪霊どもは、底知れぬ所に落ちて行くことを自分たちにお命じにならぬようにと、イエスに願いつづけた。 

32 ところが、そこの山べにおびただしい豚の群れが飼ってあったので、その豚の中へはいることを許していただきたいと、悪霊どもが願い出た。イエスはそれをお許しになった。 

33 そこで悪霊どもは、その人から出て豚の中へはいり込んだ。するとその群れは、がけから湖へなだれを打って駆け下り、おぼれ死んでしまった。  

 何とゲラサの町の男に憑依してた悪霊どもも、御子イエスの許可なしでは、豚の群れの中にされ入り込むことができなかったのである!つまり悪霊の権限は制限されており、主なる神の許可なしにはその制限を越えて勝手な行動は取れないことを意味している。

  また新約聖書には御子イエスによる大洪水前の状況の説明があるが、「神の子たち=堕天使」説によれば大洪水の裁きの原因になったはずの「堕天使たちと人の娘たちの婚姻」を暗示するような「異常な要素」は見つけることができない。

マタイ24:37-39

37 人の子の現れるのも、ちょうどノアの時のようであろう。 

38 すなわち、洪水の出る前、ノアが箱舟にはいる日まで、人々は食い、飲み、めとり、とつぎなどしていた。 

39 そして洪水が襲ってきて、いっさいのものをさらって行くまで、彼らは気がつかなかった。人の子の現れるのも、そのようであろう。   

ルカ17:26-27

26 人の子の日に起こることは、ちょうど、ノアの日に起こったことと同様です。 

27 ノアが箱舟にはいるその日まで、人々は、食べたり、飲んだり、めとったり、とついだりしていたが、洪水が来て、すべての人を滅ぼしてしまいました。  

 

 (3)へ続く