an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

委ねられている神の羊の群れに対する長老の責任

Ⅰペテロ5:1-6

1 そこで、あなたがたのうちの長老たちに勧める。わたしも、長老のひとりで、キリストの苦難についての証人であり、また、やがて現れようとする栄光にあずかる者である。 

2 あなたがたにゆだねられている神の羊の群れを牧しなさい。しいられてするのではなく、神に従って自ら進んでなし、恥ずべき利得のためではなく、本心から、それをしなさい。 

3 また、ゆだねられた者たちの上に権力をふるうことをしないで、むしろ、群れの模範となるべきである。 

4 そうすれば、大牧者が現れる時には、しぼむことのない栄光の冠を受けるであろう。 

5 同じように、若い人たちよ。長老たちに従いなさい。また、みな互に謙遜を身につけなさい。神は高ぶる者をしりぞけ、へりくだる者に恵みを賜うからである。 

6 だから、あなたがたは、神の力強い御手の下に、自らを低くしなさい。時が来れば神はあなたがたを高くして下さるであろう。 

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 老齢の使徒ペテロは、現代のトルコ領にあたる「ポント、ガラテヤ、カパドキヤ、アジヤおよびビテニヤに離散し寄留している」信仰者たちの間でそれぞれの地域集会の霊的指導者として選ばれていた長老たちに対して、イエス・キリストによって直接選ばれた十二使徒の一人としての権威を行使し「命令」することもできたはずである。しかし実際は、彼らと同じ「長老のひとり」として「勧め」ている。

 彼は明らかに、「やがて現れようとする栄光」「大牧者が現れる時」を意識していた。それはペテロ個人の使徒・牧者としての名誉などとは全く次元の異なる、王なる王、主なる主、永遠の神であるキリスト・イエスの栄光の現れに対する畏敬の念であり、晩年の使徒パウロの思いとも共通するものである。

Ⅱテモテ4:1-5

1 神のみまえと、生きている者と死んだ者とをさばくべきキリスト・イエスのみまえで、キリストの出現とその御国とを思い、おごそかに命じる。 

2 御言を宣べ伝えなさい。時が良くても悪くても、それを励み、あくまでも寛容な心でよく教えて、責め、戒め、勧めなさい。 

3 人々が健全な教に耐えられなくなり、耳ざわりのよい話をしてもらおうとして、自分勝手な好みにまかせて教師たちを寄せ集め、 

4 そして、真理からは耳をそむけて、作り話の方にそれていく時が来るであろう。 

5 しかし、あなたは、何事にも慎み、苦難を忍び、伝道者のわざをなし、自分の務を全うしなさい。 

 その畏敬の念は、地域集会の兄弟姉妹を「あなたがたにゆだねられている神の羊の群れ」「ゆだねられた者たち」と呼んでいることにも表われている。それは大牧者である御子イエス・キリストが尊き犠牲によって贖い出した人々の集まりであり、長老たちはその霊的な世話を委ねられていたのである。

 その群れは、決して地域集会の指導者たちの「自分たちの賜物を証明する勲章」や「個人的所有物」ではなく、「使用人」でもなかった。ペテロが敢えて「神の羊の群れ」と記しているのは、大変意味深い。実際その群れは、三位一体の神によって贖い出された魂の集まりであったことは、以下の聖句に明確に示されている。

Ⅰペテロ1:1-2

1 イエス・キリストの使徒ペテロから、ポント、ガラテヤ、カパドキヤ、アジヤおよびビテニヤに離散し寄留している人たち、 

2 すなわち、イエス・キリストに従い、かつ、その血のそそぎを受けるために、父なる神の予知されたところによって選ばれ、御霊のきよめにあずかっている人たちへ。恵みと平安とが、あなたがたに豊かに加わるように。 

 もし全ての信仰者が恵みによって三位一体の神の交わりの内に導き入れられており、その所有権も、主権も、神のものであるということを絶えず認識しているならば、地域教会の指導者たちが「嫌々」「組織の方針に従って」「私的利得のために」「信徒らの上に権力を振るう」という動機や態度に陥る危険性も少なくなるだろう。

 このような観点で以下の譬えを読むと、同じ僕仲間に対して権力をふるい、自分の任務を放棄し、卑しい利得のために主人の資産を浪費する悪い僕が、現代の教会に対する警告であることが理解できる。

マタイ24:45-51

45 主人がその家の僕たちの上に立てて、時に応じて食物をそなえさせる忠実な思慮深い僕は、いったい、だれであろう。

46 主人が帰ってきたとき、そのようにつとめているのを見られる僕は、さいわいである。

47 よく言っておくが、主人は彼を立てて自分の全財産を管理させるであろう。 

48 もしそれが悪い僕であって、自分の主人は帰りがおそいと心の中で思い、

49 その僕仲間をたたきはじめ、また酒飲み仲間と一緒に食べたり飲んだりしているなら、 

50 その僕の主人は思いがけない日、気がつかない時に帰ってきて、

51 彼を厳罰に処し、偽善者たちと同じ目にあわせるであろう。彼はそこで泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう。 

 この悪い僕は「自分の主人は帰りがおそい」と見くびって、主人の不在にかこつけて無責任な行動を取っていたが、神の恵みを受けた信仰者は、聖霊の継続的内在という恵みを受けている前提がある分、その責任ははるかに重いと言える。