創世記の系図
創世記5章11章には系図が出てくる。アダム家庭にはカイン、アベル、セツ、ノア家庭にはセム、ハム、ヤぺテ、テラ家庭にはアブラハム、ナホル、ハランの息子たちが出てくる。家庭が書かれてあるところでは息子たちが書かれ、そうではない場合は、息子、娘たちを生んだと書いてある。当然、アダム、ノア、テラに娘たちがいると思われる。証明できるのは、アブラムの妻はサライで腹違いの妹である。それから、カインがエデンから追放されたとき、ノデの地に住み、妻との間にエノクを産んだ。この妻は妹と思われる。3家庭に息子たちが書かれているが、必ずしも息子たちだけではないことを知っておく必要がある。なぜなら、多産に時代にそれも息子だけ産むとは限らないからである。また、書いてある順が生まれた順とも限らない。アブラハムは前後の記述から三人の中では末の子である。また、ノアの家庭でもハムは末の子である。3人名前が書かれる時、それは重要順である。例えば、モーセとアロンとミリアム、ペテロとヨハネとヤコブのようにである。聖書を読むとき、自分の概念で読み込むと誤解が生じる場合がある。文脈を理解の手がかりとして読む習慣を身につければ、読むから理解に進める。(引用終わり)
「また、書いてある順が生まれた順とも限らない。アブラハムは前後の記述から三人の中では末の子である。」
つまり、この主張によれば、テラは七十歳になって「ハラン、ナホル、アブラハム」の順番で子を生んだが、聖霊はその子らの「重要性」に従って順番を逆にしたことになる。
この主張の聖書の根拠を検証してみた。
創世記11:26-32
26 テラは七十歳になってアブラム、ナホルおよびハランを生んだ。
27 テラの系図は次のとおりである。テラはアブラム、ナホルおよびハランを生み、ハランはロトを生んだ。
28 ハランは父テラにさきだって、その生れた地、カルデヤのウルで死んだ。
29 アブラムとナホルは妻をめとった。アブラムの妻の名はサライといい、ナホルの妻の名はミルカといってハランの娘である。ハランはミルカの父、またイスカの父である。
30 サライはうまずめで、子がなかった。
31 テラはその子アブラムと、ハランの子である孫ロトと、子アブラムの妻である嫁サライとを連れて、カナンの地へ行こうとカルデヤのウルを出たが、ハランに着いてそこに住んだ。
32 テラの年は二百五歳であった。テラはハランで死んだ。
確かにハランは、アブラハムがカナンの地に向かって旅立つ前、カルデヤのウルで死んだが、その時点で息子ロトや娘ミルカとイスカがいたわけだから、アブラハムよりも早く結婚していたと推測することもできる。
また次男(?)のナホルが、ハランの娘ミルカを妻として迎えていることからも、同じ推測できる。
創世記11:29
アブラムとナホルは妻をめとった。アブラムの妻の名はサライといい、ナホルの妻の名はミルカといってハランの娘である。ハランはミルカの父、またイスカの父である。
さらにアブラハムの妻サラが10歳下の異母妹だったことと合わせて考えると、サラの母親は、ハランの母親でもあり、そして何かの理由で先に亡くなり、テラは二番目の妻を迎えた、という可能性もある。
創世記20:12
また彼女はほんとうにわたしの妹なのです。わたしの父の娘ですが、母の娘ではありません。そして、わたしの妻になったのです。
ヨシュアがテラのことを「アブラハムの父、ナホルの父」と呼び、ハランの名を挙げていないのは、異なる母親によるものなのだろうか。
ヨシュア24:2
そしてヨシュアはすべての民に言った、「イスラエルの神、主は、こう仰せられる、『あなたがたの先祖たち、すなわちアブラハムの父、ナホルの父テラは、昔、ユフラテ川の向こうに住み、みな、ほかの神々に仕えていたが、
いずれにせよ、上述だけの根拠では、「アブラハムが末の子である」と断言するのは困難ではないかと思う。
ちなみに口語訳は、ロトの事を「(アブラハムの)弟の子」として解釈して翻訳している。
創世記12:5
アブラムは妻サライと、弟の子ロトと、集めたすべての財産と、ハランで獲た人々とを携えてカナンに行こうとしていで立ち、カナンの地にきた。
「アブラハム末の子説」は、おそらく使徒7:4のステパノの言及と創世記の言及との調和を求める過程で生まれたのではないかと思える。確かにアブラハムが末の子であったなら、テラが205歳で死んだ後にカナンの地に向かって旅立ったとしても、矛盾が生れない範囲だからである。
使徒7:4
そこで、アブラハムはカルデヤ人の地を出て、カランに住んだ。そして、彼の父が死んだのち、神は彼をそこから、今あなたがたの住んでいるこの地に移住させたが、
ステパノの説教に関する考察はこちら。
アブラハムの故郷に関して、興味深い検証記事があったので、参考までに。
「文脈を理解の手がかりとして読む習慣を身につけ」ても、時には明確なかたちで「読むから理解に」進み得ないこともある。明らかに啓示されている中心的なテーマには確信をもち、難解で副次的なテーマには寛容な心をもつ。それぐらいのスタンスで聖書と向き合うことが大切なのではないだろうかと思う。自戒を込めて。